2011/6/3 | 投稿者: 大東亜の星

一期弘法付嘱書に云く「日蓮一期の弘法、白蓮阿闍利日興に之を付嘱す。本門弘通の大導師たるべきなり。国主此の法を立てらるれば、富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり。時を待つべきのみ。事の誡法と謂うは是なり。就中我が門弟等此の状を守るべきなり」と。

此の一期弘法付嘱書の中に日蓮大聖人の三大秘法と、日蓮正宗が正系門家と謂われる所以が明確に示されているのである。即ち『本門の本尊と、唯授一人の血脈と、本門の戒壇=「国立戒壇」』を整足してお示しである。この三つは正系門家の命ともいうべき宗門の最大事なのである。日蓮正宗が正系門家と謂われる所以が正に此処に存するのである。然ればこの御付嘱状について少しく解説を加えることにする。

「日蓮一期の弘法」とは、本門の本尊の御事である。次に「白蓮阿闍利日興に之を付嘱す」とは、唯授一人の血脈である。「本門弘通の大導師たるべきなり」とは、御開山日興上人を本門の題目を弘通する総大将として広宣流布を成し遂げよとの勧奨である。続いて「国主此の法を立てらるれば、富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり」とは、正しく広宣流布の暁に天皇陛下の勅宣を賜り、「国立戒壇」を富士山に建立せよ、との御命令である。即ち「戒壇の本尊と、唯授一人の血脈と、国立戒壇」が、この御付嘱状の中に明確に示されているのである。これこそ日蓮正宗の命であって、御本仏大聖人の終窮究竟の本願であり、また日蓮正宗七百年来の宿願であり、伝統教義だったのである。

ところが、時の貫首であった第六十六世の日達管長は、信徒団体の創価学会の政治選挙の為に、池田大作に諂って、正本堂というニセの戒壇堂を「本門戒壇」と偽り、内には800万信徒を騙し、外には国家を欺き、御本仏大聖人の終窮究竟の本願たる「国立戒壇」の唯一の御遺命を破壊してしまったのである。

それは昭和45年5月3日、創価学会第33回総会の席で「国立戒壇」を永久放棄する旨の宣言をした事に始まるのである。あれ以来日蓮正宗では「国立戒壇」の語は禁句となってしまったのである。

その時の日達管長の「国立戒壇」放棄の宣言を振り返れば次の如くである「日蓮大聖人は、決して大聖人の仏法を国教にするなどと仰せられてはおりません。日本の国教でもない仏法に『国立戒壇』などということはありえない。・・・・・今後、本宗ではそういう名称を使用しないことに致します。正本堂は本門事の戒壇であります」と。

この時の悪僧日達の「国立戒壇」放棄の宣言が、日蓮正宗の命取りとなって、それ以来取り返しのつかない汚濁に染まった宗門となったままなのである。この「国立戒壇」放棄の宣言によって富士五山を云われる、北山、西山、小泉、下条、等々の諸山は諸手を挙げて狂喜の酒宴を張って乱舞し、また、身延をはじめとする邪宗日蓮宗は云うに及ばず、日本のあらゆる邪宗教は「国立戒壇」放棄を歓迎したのである。是によって間違った邪宗教は害毒を流し続け、人々を不幸のどん底に突き落とすインチキ宗教は命を長らえて、邪教の存在を何時までも許す結果となってしまったのである。

「国立戒壇」を放棄することが、国家に対して如何なる災いを齎すのか、具体的事例を挙げて誤りを糾す事にする。

@「国立戒壇」を否定する66代、67代は、三大秘法抄・一期弘法付嘱書の文々句々を次のように捩じ曲げてしまったのである。即ち一期弘法付嘱書の「国主」の意を「民衆一人ひとり」と捩じ曲げ、三大秘法抄の「勅宣・御教書」を「建築許可証」等と出鱈目な解釈をして未だに信徒を騙しつづけている。このような仏法違背は、大聖人一代三十年の死罪、流罪を忍び給うた忍難慈勝の命懸けの御化道を水泡に帰すことになり、御本仏大聖人を冒涜するに当るのである。その故に、月々年々国土に三災七難が歳を追うて蜂起するのである。

A「国立戒壇」を否定することは、十四誹謗の中の、驕慢、計我、浅識、不解、不信の大謗法者となって、今生の内に堕獄の苦しみを味わうことになるのである。即ち、大聖人の本願は「国立戒壇」であるのに、それに違背して正本堂を以って御遺命の事の戒壇と偽り、既に広宣流布だと吹聴し、これに与同する者は正しく驕慢謗法にも当るのである。

B「国立戒壇」を否定することは、日本国家・国民統合の象徴である天皇を軽視することに繋がり、日本国皇室の存続を危うくすることとなり、強いては、皇室に対する敬愛の念を持てない無自覚左翼の人ばかりが世の中に蔓延り、自己の権利ばかりを主張する者で溢れ、三毒強盛の世の中は欲望民主主義ばかりが横行することになるのである。現代の世相が正しくそれに当る。

C「国立戒壇」を否定することは、還着於本人であれば、例え正系門家、日蓮正宗の貫首であっても、あるいは、日蓮正宗の僧侶たりと雖も、徳を失い殉教の精神はおろか、正系門家は渡世の為の職業坊主ばかりで満ち溢れ、世間や身内の信徒からも軽賎される身となるのである。また因果応報の原理からすれば、「国立戒壇」を否定する信徒も、当然軽賎の罪果は免れる事は出来ないのである。

D「国立戒壇」を否定することは、人生の目的観の喪失に繋がり、形而下の欲望の充足のみに捕らわれて、無気力の集団と化し、信心に対する峻厳なる確信を失わしめる結果を招いている。このような体たらくでは、広宣流布は絵に描いた餅に等しいと云わざるをえない。その反対の良い実例が、かつて、創価学会の戸田城聖の時代を思い出すが良い。戸田氏は宗門との協議の中で、学会が宗教法人の資格を取得した上で、日蓮正宗の信徒団体として再出発したのが昭和27年の春だったのである。

それは、昭和27年の春〜昭和33年の3月までの僅か6年足らずで75万世帯の大折伏を成し遂げた。また、池田大作の時代だった昭和36年当時、学会員の世帯数は160万世帯だっが、それから9年後の昭和45年には、実に、800万世帯の驚異的な前人未到の大折伏を敢行している。これ等の大闘争の原動力は「国立戒壇」建立の一点を見つめての闘いだったのだ。あの当時、宗門も学会員の老いも若きも異口同音に「国立戒壇」を叫び、崇高な目的観に燃えて希望に満ち溢れ、組織は弾けるような躍動感が漲っていたのである。三大秘法の燦々と降り注ぐ大功徳が人々を歓喜せしめて新たな人を呼び、また奇跡的大功徳が人々を呼び寄せたのである。

E「国立戒壇」を否定することは、国威を喪失して政治・経済は混乱し、国民は総じて無気力となり、自殺者は毎年驚異的な増加をたどり、凶悪犯罪の絶えない犯罪国家の観を呈するような、暗い希望の持てないい無気力な国家となるのである。

F「国立戒壇」を否定することは、隣国から領土を侵食・略奪されて侮りを受ける結果を招き、国民は等しく自虐的悲壮感に覆われ、総罰の苦悶を味わう事になるのである。

立正安国論に云く「先難是明らかなり、後災何ぞ疑わん、若し残る所の難、悪法の科に依って並び起こり競い来たらば、その時何がせんや」と。

早く「国立戒壇」の正義を、日蓮正宗の僧俗が一結して取り戻さない限り、自叛、他逼、の二難が事相となる日も近いことを憂えるものである。



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タグ: 悪坊主

2011/4/17 | 投稿者: teacup.ブログ 運営担当

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