2013/8/31

震災慰霊堂  

九月一日というのは三年前までは関東人にとって震災記念日だった。いまでも防災の日と呼んでいるが。大正十二年九月一日に起きた関東大震災は、90年前(母が次の年生まれなので覚えやすい)と随分昔のことだけど、被害の大きさで南関東の人は学校でも習い、避難訓練もしていつかまた来るぞという気持ちを持たされてきた。私達もいつか来るいつか来ると思いながら東京には来なくて、十八年前の一月阪神淡路大震災が起きた。あのときは関東は何も知らず、テレビをつけてなかった我が家では、お昼近くに人から知らされてあわててテレビをつけたけど、まだ十分な報道がされなかったように思う。親戚が神戸大阪にいて鎌倉の甥も転勤で当時堺に住んでいたから、あちこち電話をすれど通じなくてテレビにかじりついていた。
その時感じたのは時代が変わってビル化が進んでも、高速道路までやられるような地震には太刀打ちできないなという事と、関東大震災で約十万の死者と覚えていたので、やはりコンクリートの家や設備の近代化は死者数を減らすのだなということだった。
こう書くと関西の人には不人情に聞こえるかもしれないが、私達は今度来たらみんな死ぬくらいの気持ちで避難袋や防災頭巾を用意していたのだから。幸い家の親戚は無事で仁川と言う所の家は二階の壁が庭に落ちて、その写真を後で送ってくれた。
阪神から後は、死なないかもしれないと避難袋を詰めかえ、井戸を埋めないで(家の近くの学校跡地に古い井戸があった)と議員さんにかけあったりした。それから十八年で今度の東日本大震災が来た。今度は大津波だった。
これほど大きな地震が二度も来てしまうと、もう大正時代の関東大震災など大した参考にならなくなって、忘れられてしまうのだが、東京では防災の日はやはり九月一日、横網町の震災記念堂で追悼式も行われる。
正式名称東京都慰霊堂は、旧陸軍被服廠跡地に建てられた、関東大震災の身元不明遺骨の納骨堂と慰霊施設である。私は子供の頃から祖父や古い女中さんに「被服廠」の話を聞かされていた。下町の人たちが広い避難地を求めて被服廠につめかけ、38000人もの人が折り重なって焼死したのだ。(子供の時の話はもっと詳しくてとても書く気になれない)この頃車で走っていると、何度かその前を通って、一度中まで行ったことがあった。その昔よりは狭くなっているのだろうが公園に仕立てられ、大きな寺院風の建物が真中にあって九月一日以外は近くの人が公園として散策しているだけである。きっと東京の人々もその存在を知らない人が多いのではないか。

これを書いているうちにどう締めくくったらいいか分らなくなった。3.11の日千代田区のビルにいた人たちは急いで外に出て広場のようなところに集まった。千代田区の防災課長はそれをモターで見て、これは大変だと思ったという。千代田区では数年前からビル内残留と決まっていて、それが人々に知られていなかったからだ。耐震ビルであれば、震度五強くらいは耐えると言う経験を私たちはしたのだから、過去の大地震の経験の上に、新しい経験を重ねていくことが大切なのだろう。大津波が来るからと言って、海に囲まれた日本の国をどんな高い堤防で囲って暮らして安心なのか、田老(岩手県)の堤防のさまを見れば分ることだと思う。

思うさま生きたる人は良い人とつりしのぶ見るもうたままつり                          多香子
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2013/8/28

秀歌(11)平城山  秀歌読みましょう

ひと恋うは悲しきものと平城山にもとおり来つつ耐えがたかりき                        北見志保子

これを読んだ貴女が女学生の時を経ているなら、きっと音に出さなくても歌っていることでしょう。私は音痴ですがスワンさんは歌が上手ですから、この難しい歌も歌えることでしょう。とてもよく知られた歌曲だったので、「NHK短歌」八月号巻頭秀歌で、北見志保子さんという人の短歌だという事を知ってびっくりしました。なるほど形態は短歌で音も整っています。文語の調子と平城山の情景、二番の歌に切れずに続く感じから、万葉頃の和歌歌謡に曲をつけたものかと思っていました。
母のDVD『美しき日本の歌』に入っていたなと、解説歌詞集を見たら、確かに作詞 北見志保子 作曲平井康三郎となっていました。(以下解説は執筆者長田暁二氏に基ずく。)一番と二番は繋がっているのではなく、二首の短歌でどちらも奈良の平城山を舞台に詠まれた歌なので、平井康三郎が昭和十年に作曲したのに、一般に知られたのは戦後になってからということです。歌が詠まれたのはそれよりも前、大正の終わりころのことらしいのです。
一番にあたる上記のお歌は、恋人がフランスに留学して引き離された恋心を詠ったものという。歌そのものには何もその間の事情などでてこなくても、もとおる=散策するぐらいの言葉からここではさまように近い悲痛は感じられるのです。表現は古いのに、恋しくてたえがたいと言う思いは、乙女心をぐっとつかまえてくるけれどこの時彼女は人妻であったとか。二番の歌は

いにしえも夫(つま)に恋いつつ越えしとう平城山の道に涙おとしぬ                       北見志保子

解説には簡単に、仁徳天皇の妃磐之媛の悲恋を詠んだものとあるが、検索でみてもその話は嫉妬の故に他の女を宮中に入れた夫を許せず別居したと言うもので、ちょっとぴんとこないのです。プライドの高い女が愛しながらも許せないというのは「かげろう」の作者などにも見られるのですが、志保子はこの話のどこに魅かれたというのでしょうか。この歌は、下の句「平城山の道に涙おとしぬ」を導くための序詞としての上の句なのではないでしょうか。「越えしとう」は「越えたという」伝聞推定ですから。

こう書いてきて、この二首の歌は十分抒情のあるものだけど、あの格調高い哀調の作曲がなければ今の世に残った歌だったかと思ってしまいました。詞と曲、写真と短詩、この頃コラボすることでより大きな成果を上げているものを見ますが(くらべるだけおこがましいのですが)歌だけ文だけで描き切れないものかとあれやこれや思う私の頑迷さを考えさせられました。
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2013/8/25

気象庁の露場  短歌

今年の荒い天候を嘆きながら、思い出した気象庁の事を書こうと思う。
気象庁は千代田区の大手町と言っても竹橋の向こうにあって、東京の気温だの雨量だのを量っていた。気象庁が移転すると聞いたときには、高層ビルばかりになったあの辺りでは観測もむずかしいので、きっと立川の方か何かに広い土地を得て越すのだろうとおもっていた。つい2年くらい前に、突然北の丸公園のなか梅林のあったあたりで工事が始まって、妙にのっぺらぼうな古墳のような観測地ができた。調べてみたら気象庁そのものは虎ノ門に越してビルを建てる予定だが、観測地ー露場(ろじょうというそうだ)に向く土地ではないので北の丸にその露場だけ移転することになったという。跡地を売却するというから代わりに虎ノ門では何のためだか分らないようなものだが、行政のすることである。

戦後の気象庁は宿舎があって、私達の小学校の学区であった。その学区は縦に長くて、御茶ノ水駅から気象庁までだったから元気な小学生にもかなりの道のりだったはずだ。でも焼け残ったような宿舎でも、やっと戦争から帰った人や職にありつけた人には有難かったはずで、何人もの子供がそこから通ってきていた。私たちは友達に招かれて見学と遊びに出かけ、いろいろ見たと思うのに何にも覚えていない。ただ各地の測候所から送られたのだろう、モールス信号の打ち抜かれたテープの残骸の様な物をもらった事だけ覚えている。だいぶ前のクラス会に「気象庁の子」の一人が参加して、「6年生ぐらいの時三鷹の方に宿舎が出来て越したけれど、卒業まで電車で通ったんだよ」と話していた。

そんな思い出のある気象庁だから、移転は面白くないけれど観測地だけでも北の丸に出来たのはいいことだと思った。出来上がりを見たのはいつだったか、もともと梅林の真ん中に四阿があった所で、むき出しの土が盛ってある方墳のようなものから鉄の棒とそれに何か箱の付いたようなものが飛び出ているだけの変なものだった。鉄柵がまわりをかこんで「この土手に上るべからず・・・」のような板が貼られていた。梅林が少なくなってしまったのもショックだったけれど、なんでこんなに不細工なんだと憤慨したものだ。
それから何回か北の丸公園の散策に見ると、少しずつ木を植えたり飛び石を配したりして手を入れているのは分かった。今月行ったときは期待していなかったら、横の方に藤棚を作ったり、むき出しだった土が草で覆われていたりして、雀が遊んでいるのにびっくりした。

はげ山を覆う芝草すずめ舞い観測露場に夏は逝きつつ  多香子

行く度になんとなく可愛いもののように思えてくるのは不思議だが、せっかく説明板もあるのに夏休みの子供たちもその親も気が付かないのは道から少し入ったところであるにしても、私としてはちょっと不満だ。
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