2013/9/28

秀歌(15) 前川佐美雄  秀歌読みましょう

前川佐美雄さんは、明治36年奈良県の生まれ、平成2年87歳で亡くなっているから随分昔の人という感じで、あまり知られなくなっている。息子さんの佐重郎さんの方が知られているかもしれない。「心の花」で佐々木信綱に師事し、のち「短歌作品」「日本歌人」創刊。日本のモダニズム短歌の旗手として、塚本邦雄、前登志雄、山中千恵子を育てた。関西時代が長かったが、昭和45年神奈川県茅ケ崎に移り住み、亡くなるまで暮らした。戦中に戦争協賛者だったとして糾弾されたが復活し、長い作歌生活のなかで歌風は変遷を見る。
ある人の言に「モダニズムとは先にあるものを、追いかけ開いていくもの」と言われたが、それだからこそ変遷をするのだろう。その中でも超現実主義といわれる、異界の物、感覚だけが捉えるものを当然あるものとして歌っていく部分は、ずっと変わらないのだそうだ。
塚本は金字塔として信奉する人がいまでもかなりいるが、山中千恵子や斎藤史でさえ忘れられていくのではないかという時代に異界の者なぞというと、オカルトと言われてしまうのかもしれない。
わたしがあまり関心を持たなかった、前川佐美雄を取り上げるのは、彼の晩年の弟子佐藤光子さんをいずれご紹介したいからなのだ。佐美雄の超現実主義の美しい部分が、佐藤さんの歌の中に花開いていると思うからだ。

ぞろぞろと鳥けだものをひきつれて秋晴の街にあそび行きたし  『植物祭』

このお歌は第一歌集『植物祭』が1930年だから戦前の若い作者の出発点だろう。佐美雄を歌が下手という人もいるが、わたしはこんな歌が好きだ。鳥けだものと言っているが、敷衍すれば異形の物たちまでをふくむそれが我と同じ仲間よという感じがして、友だち何人かで秋の街にくりだしたら面白かろうと歌っているようだ。こういう歌を今出してもあまり良い評価はうけられないかもしれない。

春がすみいよよ濃くなる真昼間のなにもみえねば大和と思へ   『大和』
うしろより誰ぞや従(つ)き来と思へどもふりかへらねば松風の道   『天上紅葉』

こういうお歌をわかりやすく解説する必要はあるのだろうか『大和』は昭和15年だから植物祭の続き頃だが、『天上紅葉』は最後の未完作品集で、この歌人の膨大な歌の中から、私が恣意的に並べたものだ。霞に閉ざされて何も見えない奈良の景色は見えずとも奈良なのだ。あるいはそのものが美しい奈良(日本)なのだと言っているのか。そして、後ろからついてくるものは、泥棒やストーカーではなくて、長年親しんだ異界の者たち、目に見えずともよく分かるから振り返らないのだろう。ただこのお歌は晩年の作だから「松風の道」を死への道ととると、解釈は全然別のものになるかもしれない。
この様な前川さんに育てられた塚本がその怪異性も残しながら、ほとんど難解になり、行を共にした斎藤史さんは、少し観念的な歌を詠むのもおもしろい。今回この歌人の紹介はちょっと難しかった。私の気持ちが先走っているのだろう。
8

2013/9/25

長崎カステラ  短歌

ちょっと前のことだが、八月の終わりに弟夫婦が五島列島に旅行に行った。いつもは「どうせ名物にうまいものなしだから」「貴方たちは気が利かない」「きっと喜ばないに違いない」とお互い言い合っているのだけど、今回は電話をかけて福砂屋の「長崎カステラ」を送ってと注文をした。
東京では文明堂のハニーカステラはスーパーでも売っているが、福砂屋は三越まで行かなければならない。この頃はデパートにもいかないので伝があれば頼むにかぎるのだ。福砂屋にこだわるのは、カステラの下の紙のあたりにザラメがとどまっていて、かむと「じゃり」っとするのが皆好きなせいで、年中食べるわけにはいかないから頂き物を待っていたりしたものだ。
五島と言えば、母には私が得意げに人に話す武勇伝がある。70代の頃母が長崎ツアーの一行から離れて、単独行である島に上がった時フェリーの人から「一時間で帰ってきてくださいね」と言われたのに、内心「やなこった」と思った母はゆっくりと見物して船着き場に戻った時には、その日の便はお終いだった。母は気強く役場の観光案内所に行って「私はどうしても平戸へいくのだ」と訴えた。役場の人は「今日は民宿があるからここに泊まりなさい」と言ったが、母は「私はもう島に泊まり飽きたから、どうしても平戸に行く」と言い張った。困った役場の人がいろいろ考えて、ちょうど島へくる貨物船があるから、それに乗せようということを思いつき母は結構大きい貨物船にのって(多分平戸の近くという)名も知らぬ波止場に降ろしてもらったのだ。そこで終わりではなくて、波止場でキャッチボールをしていた若者をつかまえ「私は平戸へ行きたいから、駅までタクシーを呼びたい」と頼んだ。とんでもない老婆の出現に驚いた若者たちは、やってきた仲間のトラックを止めて「このバアチャンを駅まではこべー」となって母はまんまと目的を果たしたのだ。

帰ってきた母からその話を聞いた私は(その頃染めない髪はほぼ白で)「髪が白くて年寄りだから大丈夫だったので、髪が黒くて若かったら、どこかアラブの国に売り飛ばされていたぞ」と怒った。随分無茶もやったり人から親切にしてもらって、日本中いっぱい旅をしたけれど、本人は今はどこへ行ったか殆ど忘れている。
そんな母も甘いものだけは大好きなので、届いたカステラはおいしく頂いたのだった。

カステラの甘き夢みつ波まくら長崎の旅はゆらりゆられて  多香子
7

2013/9/22

古語辞典と国語辞典  短歌

ここまできて、また小難しいことを言い出すのだろうと思うあなた、そうなのです。今日は皆さまがお歌を詠んでから、推敲をするときに是非疑問に思う事は辞書にあたって欲しいという事を書きます。じゃさようならって言わないであなた。

あなたは辞書は本派ですかそれとも電子辞書派でしょうか。どちらだっていいのですが、私は年寄りだから慣れ親しんだ本型の方が好きです。唯一よくないのは自分の眼が駄目になってきて、辞書の細かい字が読みにくくなったこと。それを除けば辞書は高校生ぐらいから使っている手によく馴染んだものがいいのです。広辞苑のように持つのも重い大きな辞書でなくても、かなりの事が書いてあります。殊に文語文法は、高校でやったきり忘れていたと言う人には、その習った時の辞書と文法表が思い出す手伝いになると思うのです。
文法表と聞くだけで吐き気のするあなたは、口語短歌で素敵な世界を広げてください。でも現代国語だって、文法や使用法というものがあるのです。

もとより太古の時代から言葉はあり、コミュニケーションがあって、様々な表記が出来(と私は考えています)文法はありませんでした。それぞれの集団の中で通じ合い認められた言葉が通用していったのでしょう。公的な機関が出来れば公文書の様式が決められ「ものがたり」の分野ではやまとことばによる文章がお手本になっていきます。歌は万葉以下「勅撰集」がお手本となって来たのです。
でも現代の我々は、文語で話をしてもいないし、旧かなで文を書いてもいないのです。文語の歌や旧かなづかいは、このごろの流行の様な気もします。雰囲気が出るのは確かですが、歌に深みが出るというのはどうでしょう。
慣れない文語で思う事が十分詠えないのなら、まず思いきり詠ってみて、文法の部分を辞書や文法表にあたって直していけばいいのだと思います。
短歌は省略の文芸といわれますが、近頃文法にこだわりすぎて、それは〜の省略だと言われても納得しない人がいます。短歌では昔と違って係り結びの「ぞ・なん・こそ」はいかにもだからと省略されることが多く、連体止めが結びに来るとおかしいと言い出す人がいるのですが、係り結びは高校までに習っているはずなのです。

昔の歌の先生は、辞書なんか使ってはいけない、全部頭に入れなさいと言う方もあったようですが、私達の年になってくると、どんどんこぼれていく方が多いので、ぜひ辞書や資料を使いましょうとお勧めします。長々とお付き合いいただいたので、まずい歌を一首渋茶代わりに

壁一面仏壇組み込む本棚に菊の香りの古本並ぶ  多香子
7



teacup.ブログ “AutoPage”
AutoPage最新お知らせ