2013/10/31

述懐 もう11月  

この前7月に述懐として書いてから、また三月もう十一月になってしまいました。このブログも始めてから半年たって65枚も書いていました。一回の記事が原稿用紙二三枚とすると、訳150枚くらいを書いたことになります。小さなものも積み重なると山になるということだな、時間が細切れでも少しづつ下書きをしていけば出来ることなのだと分かりました。その間、読んで下さる方、コメントをくださる方、拍手をして下さる方がいて、支えられている気持を持て感謝しています。

歌物語のように文章に歌を添えてみたらと書いていますが、母や自分の思い出、戦後すぐの話などが多くなってしまうのは、今の内に書き留めておかなければ自分でもあやふやになってしまう事や、街の再開発でどんどん様子が変わる東京に恐怖を感じることがあるからです。そして今年の夏の暑さや台風豪雨などの気候変動も、なにかしら日本列島に異変が起きているのではないかと恐ろしく思いました。
そんな気候不順はわが家も揺さぶり、母の入院、私の喘息、その後母の認知症がよりすすんだりして、慣れているようで疲れてくることもあります。その間の細切れの時間で歌を詠み、投稿をしてこの頃私の時間は「介護生活」より「短歌生活」になっているんじゃないかと思ったりします。

それでもブログにNHK投稿、ネット歌会二つ、掲示板の交流は、少し「短歌生活」が多すぎるような気がして11月からブログの更新を四日に一度にすることにしました。楽しみにしてくださる方(いないかもしれないけれど)また続けて読んでくださいね。
秀歌の歌人紹介は私の好みに偏っているかもしれませんが、ときどき歌人名で検索して詠んで下さる方がいて、そういうかたがまた読んでみようと思われたら嬉しいなと、トラップ(言い方は悪いけど)のような感じで続けたいと思います。
世の中ツイッターが花盛りですが、年寄りにはきつそうで私は掲示板で短歌交流をしています。「短歌ファクトリー」短歌BBSと言う所に顔出しをしていますので、よろしかったらお寄りください。
もう11月となると、今年もあとわずかなどと恐ろしいような気分になりますが、時は流れ続けるもの、どうかこれからもよろしくお願いいたします。
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2013/10/28

秀歌(19) 森岡貞香  秀歌読みましょう

私は森岡貞香という歌人を本当に知らなかった。(もっとも知らない歌人が山といるのだけど)NHKのテキストなどで名前や写真を見かけてもお年からして古いような気がしていた。今回ご紹介のために少し読んでみて、現代の女性歌人は少なからず影響を受けているのだろうと思われる歌風であった。その方たちにすれば私がここに書くことなど、いまさら何を言っているのと思われるだろうけど若い方たちは今自分たちが自然に使っているレトリックが、戦後現代短歌の歌人たちにより苦心して編み出されてきたことも知って欲しい。
森岡貞香さんは1916〜2009年、亡くなったのが93歳という長命であったが、松江市生まれ軍人の娘、軍人の妻、未亡人として戦後を迎えた。女一人子供を育て日本人として戦後を生きていく新しい人生だったと言うとらえ方もあるし、その時代の女性は皆そうであったと言えるるかもしれない。「女人短歌」創刊に加わり、のち代表も務め、後年「石畳」主催。

月のひかりにのどを湿してをりしかば人間とはほそながき管のごとかり                      『白蛾』

きのふまたけふ厨の方へ行かむとし尻尾のごときを曳きてをりけり

飼猫をとぢこめしかどいつしかや葬のまにまに猫の居りけり『百乳文』

一首目、『白蛾』は1953年第一歌集だから、下の句の句またがり、字余りなど新しい歌を模索し色々に試している姿が見える。上の句の「月のひかりにのどを湿」すという表現も今ではそこらに見かけるが、当時ではかなり新しい表現だったのではないだろうか。
『百乳文』は1991年で次の年超空賞をとっているから、晩年の安定感がある。しかし二首目の「尻尾のごときを曳きてをりけり」は、こうと言い表せないが「わかる」と思わせるうまい表現で、日常のささいなことを何かありそうに歌う工夫というか「うたいかた」というものなのだろう。三首目の猫になると私も父の葬儀の時にそんなことがあったなと思いだすが、猫の不思議さみたいなものを自在に詠っている。
戦後の女性歌人は、「女人短歌」というものを立ち上げて地歩を固めねばならなかった。その先人たちから習い教わって、次の世代が現れ、また次へと続いて来たし、乗り越えて行こうと工夫もした。今女人とか女流とか取り立てて言う必要がなくなって来ている現状で、若い人たちは先人を知らずにその「歌い方」をわがものとして歌っている。
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2013/10/25

コスモスの思い出  短歌

秋の花を思う時、桔梗、萩、彼岸花、菊・・と思うのに、コスモスの事を忘れていたなーと我ながら不思議におもった。20年前には一番好きなのはコスモスだった。家の屋上では水が切れて育たなかったが、ちょっと近郊にいけば空地にはひらひらとピンクのコスモスが群れていたものだ。昔の私は人がコスモスの種をまいて育てるなんて考えもしなかった。ある時生えてきたコスモスは自分で種を落とし増え広がっていくものだと思っていたのだが、その始まりなんて考えもしなかった。

主人の鎌倉の実家の隣に、天津敏さんという俳優さん(テレビで「隠密剣士」の悪役をやっていた)がいて、その方が亡くなった跡家が取り壊されたところに一面のコスモスが出現したことがあった。誰がまいたか分らないから、私は自然発生だと今でも思っているが、背の高いピンクのコスモスが、鎌倉の切り通しに面して風に吹かれていた様はほんとうに「夢のよう」であった。二年位堪能したろうか、次の秋には砂利が入れられて駐車場になってしまい、私のコスモスは夢となってしまった。
わが家には息子も含めて「父の介護」という長い欠損時間があって、それが終わった後母をはじめとして旅行に出かけた時期があった。大抵は母が一人で出かけたが、たまに私と母の親子旅もした。父の介護の間家にこもっていたので、テレビで見るコスモス畑はいつか行きたい憧れだった。その頃の流行はコスモス街道と黒姫のコスモスだった。ことに黒姫山のゲレンデに咲き誇るコスモスの写真が私を魅了し、主人だけが行ったことのある野尻湖というのも行ってみたかった。

あれこれ計画を立てて、妙高高原のペンションに一泊の強行軍だったが、母と二人で長野新幹線ではない「あさま」で出かけて行った。結果として私は昔のコスモスの夢を取り戻すことはできなかった。ゲレンデ一面のコスモスは、人の背ほども高く赤紫ピンク白と色とりどりにさかりであったが、それはスキー場の人が育てたもの、畑のようにきちんと並んで間に人の通り道がある観光用のコスモスだったのだ。
高い山の上で、見下ろせば眼下小さく野尻湖が光り、言うことのないシチュエイションだった。行く途中で小林一茶の記念館や柏原の終の棲家を見ることが出来たのは収穫だったし、妙高高原の紅葉の始まったいもり池など自然も満喫した。母と私にとって妙高はお気に入りの一つになった。ただその時以来、私はコスモスを追うのはやめようと思った。なんでもない空き地にコスモスが勝手に咲き乱れている所など、高度成長してしまった日本にはないと分かったからだ。
信州は随分あちこち行って大好きなのに今また行けない年月がめぐってきている。ペンションの庭に一叢ふたむら秋風に揺れるコスモスが今はなつかしい。

この夏の暑さおもえば安寝(やすい)する夢のなかでもコスモスゆれる                        多香子

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