2014/1/28

富士山  短歌

何だか一月も終わりと言うのに家では皆でインフルエンザにかかっている。鼻水をたらして今日は富士山のお話ですというのもなんだかなー。

富士山が大好きという人がいる。そういう人に比べると私など好きぐらいで、世界遺産になったりするとへそを曲げて嫌いと言いそうになる。しかしちょっと新幹線に乗っても、中央道を高速バスで走っていても、富士山が見えるかは気になるものだ。山は天気次第で見えたり見えなかったりするが、一番高いからこそ富士山は雲の中なんて言う事は多い。旅は日にちも予定しなくてはならないから、お天気次第というわけにいかない。今までに富士山がくっきり見えたのは三割くらいだろうか。
お国争いがあるくらい、静岡側と山梨側のある富士山だが、私は山梨県に行った回数の方がぐんと多くて、印象深いのは富士吉田の駅ビルでお昼を食べながら目の前にどーんと広がっていた富士山である。箱根では母と冬に駒ヶ岳のロープウェイの頂上駅から見たすそ野の広がる富士山、前夜あられが降ったのに雲一つなく晴れた当りの旅だった。やっぱり富士は雪を頂いた姿が、たとえ風呂屋の看板絵であろうと一番と思われる。
富士山を歌った歌では

田子の浦にうちいでてみれば白妙の富士の高嶺に雪はふりつつ 山部赤人

が有名であるが、これは静岡側からの富士山である。
今度の世界遺産登録で滑り込みセーフになった三保の松原も、清水港近くの松原で、羽衣伝説の絵や歌には背景に富士山が描かれて、いかにも富士と三保の松原はセットですよと言う感じがある。私は親戚もいるので二度くらい訪れているのだけど、あのとき富士山を見ただろうかと記憶に自信がない。それはああいう絵が海の上から陸を見ている構図なので、船酔いのせいで船には乗らないようにしている私には、三保の松原の向こうに富士山という図は見ることが出来ないからだろう。
「富士には、月見草がよく似合う」と書かれた太宰の「富岳百景」は息子が大好きで、その仕事場だった御坂峠の天下茶屋に皆で行って見たいものだといいながらこれも果たしていない。近年地震の多い所から、富士山大噴火の取沙汰もあるからそうならないうちに(私は噴火しても大したほどにはならないと思っているが)行けるようになったらいいと願っている。

どの向きの顔もハンサム背が高く雪の帽子がにあう富士山 多香子

インフルや何かで次の更新は二月二日の予定です。
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2014/1/24

秀歌(23)原阿佐緒  秀歌読みましょう

今日は原阿佐緒さんという近頃また取り上げられるようになった歌人の事を書きます。私はああそういう名前の人がいたな、という感じでとこでその名を読んだのかも覚えてなかったのですが、秋山佐和子さんの歌や、NHK短歌テキストなどで見て、ああ俳優の原保美のお母さんと気が付いた次第です。

原阿佐緒は写真で見ても病的に美しい人で、誘蛾灯のように男の人を惹きつけた。恋に溺れるだけでなく結婚生活にも子供にもわけわからなく耽溺していくようなところがあったらしい。原保美は二男で顔立ちも似ていないが(結婚してなじめなかった画家の庄司勇の方に似たのか)美貌ははじめの男との長男千秋に引き継がれたようだ。伊達藩士の分家から商家になった(つまり資産家であった)原家の跡取り娘で何不自由なく育ったことが、後先のわきまえない恋に落ちる元だと言う人もいる。私はこれほどの美貌の歌人は燃えるような短い恋をして、燃え尽きてもまた恋をして麗しい歌を残してこそと思うのだが、一生に何人の男と言われるほどの恋の割にはお歌は目覚ましくないような気がする。

生きながら針に貫かれし蝶のごと悶へつつなほ飛ばむとぞする

思はれし思ひあがりにまかせたる恋のむくいを別れてぞ知る

恋二つひと時にせし狂乱もなごみてただにのこるかなしみ  原阿佐緒

こう三首ならべると恋に狂う女の情念が描かれているが、社会から糾弾された物理学者石原純との恋の逃避行に

かくのみに吾は傷つきぬうつそみのかなしき人といのちちかひて

と詠みながら二人の暮らしが落ち着くと、逃れるように子供のところへ帰ってしまう。この道理のなさが男を誘いそしてあきらめさせるのだろうか。美人薄命ではなくて阿佐緒は二男保美のもとで八十歳まで生きている。男にとっては山川登美子のように美しく死んでしまったひとのほうが追憶されるだろうが、女にとっては老残と言われながら生きた歌人の残影をこわごわ見ている事しかない。
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2014/1/20

鎌倉の狸  短歌

前に大手町に出てきた狸の事を珍しいことのように書いたが、鎌倉の狸となるとまあ普通に居るだろうと思われる。しかし十数年前新聞にも出たが犬のジステンパーが移って、予防注射をしていない狸は随分死んでしまったと言う。そこへ今度はアライグマが入り込んで繁殖し今では害獣として駆除されようと言う勢い。狸だと思って餌を投げてやったら、帰って行く後姿の尻尾がシマシマだったと言う話も聞いた。
今日の狸の話も私が弟から聞いた又聞きの話で、徒然草にでも出てきそうな話だから皆様化かされないように気を付けて読まなくてはいけないと思う。

浄光明寺というのは鎌倉でも中々由緒あるお寺で、開基は1251年北条氏の時だが、足利氏の帰依を受け義満義直兄弟から所領ももらっていた。国の史跡として裏山に冷泉為相の宝篋印塔(お墓)があり、その後境内も史跡指定されている。冷泉為相は藤原定家の孫「十六夜日記」の作者阿仏尼の子供。歌の家冷泉家の祖である。定家の跡継ぎの為家には子供も多く後年暮らした阿仏尼と子の為相を溺愛したため死後遺産争いが起こって、阿仏尼が幕府に訴訟のため鎌倉に下向、為相も晩年は京から鎌倉に来て亡くなったとされている。このため藤原北家の歌の家は、二条、京極、冷泉と別れたと言うのは歴史の授業で習うところ。
浄光明寺の先の住職は考古学者で、弟を今の大学に牽いてくれた方だったが、数年前に急死して今は子息が寺を継いでいる。その方が亡くなる前の話だったと思うが、弟たちが「大三輪さんのお父さん」と呼んでいた先々代の老師の話である。この方はなかなかの僧で「徒然草」に出てくる僧たちのような俗っぽさはなくて、お寺の裏山を根城にしていた狸たちの事も自然に暮らしているのだからと知らん顔をしていたと言う。狸は夜行性で餌は貰ってもあまり人には近づかない。それがある日まだ黄昏ともいかない境内を歩いていた老僧のすぐそばまで、一匹の狸がよろよろと現われてぼろぼろながらきちんと老僧の前に座り、じっと顔を見上げたと言う。「大三輪さんのお父さん」は内心びっくりしたものの動ぜずに、「その様子だと命も長くなかろう、私に別れを告げに来たのは長年住んでいる狸の長老なのか。一族の後を頼みに来たのか。」と声をかけると、狸はまたじっと顔を見つめて、さすがにお辞儀はしないで、くるっと山へ帰って行ったと言う。
翌朝寺男が境内の端で死んでいる狸をみつけたので、老僧は「やっぱり」と死体を山に埋め「一族の事は安心せよ」といってお経をあげてやったと言う。これではまるで「狸も帰依する仏教説話」なのだが弟は本当の話だと言う。

読経に狸ばやしも加わって鎌倉の谷(やと)に月はかたぶく  多香子
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