2014/2/26

今年の梅「湯島天神」  短歌

東京にも梅園と言えるかどうかともかく、小さなものはそこかしこにあるのだが、中々美しい所には出会わない。家の近くではなんといっても東御苑の白鳥濠に紅白の大木が満開になると、松や石垣を背景に日本画のような梅に出会える。しかし駐車場もなく坂や石段の多い東御苑は車いすにも適していないので、この頃は行かれなくなっている。その点湯島天神には近くにタイムパーキングが出来て、土曜の朝なら止められるので買い物がてらに母を積んでいかれるようになった。
今年は甥が大学受験で、私も知らん顔をしていられずに、湯島の聖堂のお守りを買ったりしたが、湯島天神の方はお正月は綱を張るほど受験生であふれるので、本人が行けばいいと後回しにしてしまった。何しろあんなに多くの子が願を掛けたら、いかな天神様だとて全部の願いを聞いてやるわけにはいかないと密かに思っているので。

湯島天神の宮司さんだかが、一時梅のせん定をやりすぎて花が少なくなってしまったことがあった。梅祭りに行ってもごみみたいな花だったと、私は悪口を言っていた。その樹もだんだん大きく回復してやっと美しい花が見られるようになったら、社殿の改修がはじまり、それは菊祭りに合わせて綺麗になってめでたかった。五六年前か庭の部分に重機が入って「なんだろう」と思っていたら、池を拡げ小さな流れを作ったり岩組をして梅の樹も配置を替えていた。庭が出来上がったらやはり風情がちがって、白梅だけでなく、八重のピンクの樹なども配したのでより梅が楽しめるようになった。その風景の真ん中に、前からあったものだが「鏡花筆塚」という背の高い石碑がどんと建っていて、この頃忘れられつつある「湯島の白梅」(原作名は「女系図」)を思い起こさせてくれるのが、年寄りには嬉しい。
例の甥に聞いてみたら「泉鏡花」自体を知らなかった。かなり国語の得意な受験生でさえもという事だ。鏡花の作品は新派の舞台に掛かることが多かったが、その新派が低調になってきてテーマも古くなっては観客の紅涙を絞ると言うわけにもいかなくなってしまった。
私が勘違いしていたようだが、この「女系図」のヒロインお蔦は湯島の芸者ではなくて、新橋あたりの芸者あがりだった。(手元に本がなくて正確ではないが)その勘違いは湯島天神の男坂を降りたところに検番(芸者登録所のようなもの)があって、置屋も料亭もあったそのあたりが花街だったせいだろう。少し離れているが、以前家の隣にあった美容院にはそのあたりの女将さんや芸者さんも来ていたから、私の頭の中で湯島周辺の物語という観念ができていたのだろう。話がだいぶそれてしまって、今年の梅の花の品評は飛んでしまったが、雪の多い割にまあまあの風情だった。甥の受験については第二志望の大学に受かったので、まずはめでたいと言う所。

合格の便りをのせて春風が山盛りの絵馬と梅にほほえむ  多香子
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2014/2/22

千曲川旅情の歌  短歌

「千曲川旅情の歌」というと下に掲げる「小諸なる古城のほとり」を思い浮かべる。本来の「きのうまたかくてありけり」の方はそれが題だと言う感じでもある。この詩は父が好きで、私達も女学生の時に暗唱した詩の一つだ。建て替えの時にも捨てずに持っている『明治大正文学全集 島崎藤村』は春陽堂から昭和三年発行で表題も右から左へ書いてあるから父の本だったのだろうか。
「小諸なる古城のほとり」  -落梅集より-

小諸なる古城のほとり     雲白く遊子(いうし)悲しむ
緑なすはこべは萌えず     若草も藉(し)くによしなし
しろがねの衾(ふすま)の岡辺 日に溶けて淡雪流る

あたゝかき光はあれど     野に満つる香(かをり)も知らず
浅くのみ春は霞みて      麦の色わづかに青し
旅人の群はいくつか      畠中の道を急ぎぬ

暮行けば浅間も見えず     歌哀し佐久の草笛
千曲川いざよふ波の      岸近き宿にのぼりつ
濁り酒濁れる飲みて      草枕しばし慰む

父も母も旅行が好きだったから小諸へは行ったに違いない。そうだ、草笛を吹くおじさんがいたと言っていた。私達もずっと憧れて35年位前に訪れたことがあった。懐古園はそれなりで藤村の記念館も面白い展示があったがおじさんはいなかった。そして<岸近き宿>である中棚鉱泉は流行らず(今はどうだろう)公園奥の高い所に上ってやっと見えた千曲川はがっかりだつた。丁度淀みのところだったからか<いざよふ波>もなく勢いのない死んだような川は、あとでダムを作ったせいだと知った。その後小海線の右左に見た千曲川は流れはあったが水量少なく、護岸によって風情の薄いものになっていた。
この詩のはじめ、春の芽吹きを否定し春は名ばかりの淡い季節は都会ではもう充分の春の頃、信濃路は冬からさめきれないのである。私は寒い時の旅はしないようにしているので、小諸へ行ったのも十月にしては暑い時期だった。そのせいで藤村の詩の旅愁、敗残感が感じられなかったのかもしれない。藤村は教職を得ての赴任であったのだから、その敗残感は創作であり一連の詩のペシミスムもその時のスタイルと思う。教え子佐藤祐子との恋愛問題で死をも考えた時期はおわり、「落梅集」を出す前に結婚もし、落ち着いた時期だったのだ。

千曲川あつき想いを忘るれば雪の山々またはるかなり  多香子

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2014/2/18

秀歌(25)宮柊二『山西省』  秀歌読みましょう

昨年から宮柊二に魅かれ、曲がりなりにも何か書こうと思い、まだまだと足踏みしていたが少しずつここへ書けばいいのだと決めてようやくとりかかってみた。
宮柊二さんが戦争にいったのは昭和14年、それから18年まで中国山西省で一平卒として戦った。歌集はその間の体験を歌にしたというより、歌人が戦争に行って過酷な兵隊生活の中でうめくように紡いだ言葉の集まりというべきか。戦後昭和24年に第二歌集として出された『山西省』という歌集は記録文学と評されるように、本人も「無名の一人の補充兵が…感慨の断片の集積に過ぎない」という。その日常の淡々と記される内容の非日常は、読む者に真実を感じさせ本人が立派な兵隊であろうとしたといっているにもかかわらず、十分な反戦文学になりうると思われる。このようなブログに選びきれもしないし、伝えきれもしないだろうが、八首を並べてみる。

たたかひの最中静もる時ありて庭鳥啼けりおそろしく寂し(断片)

肩よせて綾目もわかぬ夜のかはらを睡りつつ行きいくたびも転ぶ(山骨)

蝋燭の寸ばかりなる惜しみつつ寒ければつくろふ襦袢靴下の類 (分遣隊)

ひまなく過ぎゆく弾丸(たま)のその或るは身の廻りにて草をつらぬく(黄河)

目の前に黄河はひかる汝が死(しに)の昨日(きぞ)の夜なる確かさ薄し

自爆せし敵のむくろの若かるを哀れみつつは振り返り見ず(16年断片)

泥濘に小休止するわが一隊すでに生きものの感じにあらず(中条山脈)

はつはつに棘の木萌(めぐ)むうるはしさかかるなごみを驚き瞠る(〃)

『山西省』にはこのような戦場を日常とする一兵士の感慨が何の主張もなく描かれて、編年編集によって一つの塊になった時、読む者に鬼気として迫ってくるものがある。戦後が戦前になるのではと不安にかられる現在でも若者に勧めたい名著だと思う。
昭和18年日本に帰った宮柊二は19年英子と結婚し、生きて戦後を迎えることが出来た。24年『山西省』出版、28年『コスモス』の創刊。人生の前半に北原白秋との邂逅、戦中にその師の逝去を外地で聞き、『山西省』という歌集を成して「コスモス」という大きな仕事を立ち上げた歌人に、戦後の社会はやはり家族を守り仕事をする戦場であった。
こののちに長い後半生があり、名作『山西省』を越えて歌の世界を構築していった仕事を、戦後に生まれ年を取った私も読んでいかなければならないと思っている。
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