2014/7/29

朝顔と桔梗  古典(伊勢、源氏など)

誕生日が来て、母は90歳になった。二年ごとの見直しで介護度が4になった。習い事などの級が上がるのとちがって、何もいい事ではない(千代田区は3以上でしてもらえることが増えるらしいが、余所の自治体では4ないと厳しいと言う話も聞くが)けれど、卒寿を迎えられたので、私はこの後は流れのままだと思っている。

夏になると一首二首と朝顔の歌を詠みたくなり、桔梗はやはり秋までとって置こうとなるのだが、実際に家のベランダでは毎年七月に桔梗が最盛期を迎える。八月には咲き終わって、切り戻した後の花が九月に咲くが、花付は少なくなる。朝顔は以前向かいのお家に朝顔市の鉢が二つ到来したので、家では播かないでその鉢の花を楽しんでいたが、家もそちらもビルの建て直しで朝顔はなくなってしまった。
学生の頃、平安時代位には「朝顔」は「桔梗」と習ったので、ずっと「あさがお」が「ききょう」で、「桔梗」が「朝顔」だったのだろう(つまり名前の取り違え)と思っていたが、今回調べてみたら、平安時代には「桔梗」の表記がほとんどなく、秋の七草にも「あさがほ」としるされているという。「源氏物語」の写真本(この頃目が悪くなって、写真に説明のついた学習研究社の「源氏物語」を愛用している)で「朝顔」の巻をみてもそれは桔梗をうたっていて、秋の風景である。ここに出てくる「朝顔斎院」は六条の御息所の娘で斎院の後、宮中に上がって中宮となった人とはいとこに当る。「秋好中宮」と呼ばれるため、私は混同していたが、別人であることを今回確認して(じきに忘れるけど)よかった。

それでは、いつごろ朝顔が朝顔になり、桔梗が、その花の名になったのかは、ちょっと簡単に調べられなくて分らないのだが、江戸時代には「朝顔市」もあり、朝顔の鉢を仕立てるのが貧乏旗本の内職であったのだから、その頃には今の呼び名になっていたのだろう。私の古語辞典には明智の桔梗紋は一説には「つつじ」のかたちとあって、戦国時代には家紋も勝手に作ったりしていたことを思うと、遡ってどのあたりでききょうは「桔梗」となり、あさがおは「朝顔」となったのか、弟にでも聞いて見なくては。
浅草のほうずき市には行ったことがあるが、入谷の朝顔市には行ったことがない。行燈仕立てにする朝顔鉢は自分で作るには意外と難しく、昔は垣根に這わせたりしたものだか、今ではそんな風流な庭のある家も少なくなってしまった。

涼やかに桔梗咲き初む文月は新暦の夏旧暦の秋  多香子

3

2014/7/25

「折本」を作ってみて  短歌

先日書いた折本「水無月のうた」(ページは)について、ネット以外の事を書いてみよう。

何しろ私の周りは高齢だから(!?)ネットをやっていない人が多いし、短歌をやっている人も少ない。友人は多才な人が多いが、同じような介護生活かそれぞれな事をしているので、私も自分のやっている事を発信することが出来なかった。ネットをやる人でも、電話をしてみると「折本」のところは読んだけどPDF版と言う所で止まってしまったと言う答えだった。
私は「水無月のうた」が出来た最初から、これは名刺代わりに使おうと思っていたので、第一号をこのブログの最初からの協力者スワンさんに郵便で送った。(彼女もこのところ忙しく、しかも彼女のPCが調子悪くなっている)その評価が「大変いい」だったので、コピーをして切れ目をいれ、町会の婦人部の集まりに持って行った。普段時間がないからあまり行事には出ないのだが、昔からいる住民なのでそこそこお付き合いはしているのだ。
紙の状態で配って(その時は六人)さあ折ってと折り紙教室みたいになった。ただ「歌をやっています」といっても、どんなものだか説明するのも簡単ではないが、現物を「読んでおいてね」と渡すと否やはなくて、写真付きだと興味ももってもらえる。
それからちょっと遠くの親戚だとか、友人に郵便で送ったりして、二年ぶりのクラス会でもみんなに配った。このクラス会は女学校のもので、私が大幹事だから、ヘルパーさんを頼んででも出ることにしている。結構な才女たちだけど、現物を目の前にして毒舌も無く、楽しい会にすることが出来たと思う。小さな折本はお財布や小物入れに入れて出かけられるので、人に出会った時ちょっと渡せるので便利である。何だかんだで、40枚ぐらい作って渡したのだが、短歌をやる、或るいはやっていた人は数人で、家のまわりには居なかったから、ちょっと派手な写真入りのカラー版というのが、好評だったみたいだ。
私がお世話になったこはぎさんの「折本の作り方」は他の方にも役立ったらしく、殊に大阪短歌チョップにあわせて「折本とネットプリントブーム」のような感じになったようだ。東京ではサンドピットという早稲田の喫茶店が「短歌喫茶」としてフリーペーパー祭りをやったりして、私も行って見たかったがいかんせん今の状況である。折本「水無月のうた」の中で、ご近所さんに評判良かった歌はこれです。

遠い雲忘れてしまった思い出のかわりに買うの水色の傘
                      多香子
4

2014/7/21

睡蓮池  短歌

睡蓮池と言えばモネの絵を一番に思い浮かべるかもしれないが、今回はそれではなくて庭に作った小さな睡蓮池の事である。(でもあとで絵のことも出てくるかもしれない)その庭は、神田の家が建って次の改築の後ぐらいではないだろうか、二つの建物を廊下でつないだ造りだったから建物の間に中庭ともいえない小さな空間があった。父も母も園芸も動物も好きだったけど、お金をかけることはせず、見場の悪いものでも平気なたちだった。私もその血を継いでいるのかもしれない。

改築の際取り外したタイルの洗面台(こう書いてイメージできる方がどれだけ居るだろうか。ステンレスが高級品だった五十年ほど前は注文でタイルを張った洗面台を作ってもらうのは普通だった。)を捨てないで、中庭と称する処に据えて水を張り、睡蓮の鉢を買ってきて沈めたのだ。祖父母の代の戦前の事はよく知らないが、多分家で睡蓮を育てるのは初めてだったから、皆期待と不安で花の咲くのを待っていた。睡蓮は蓮より少し早く咲くので、きっと七月だったろうピンク色の小ぶりな花がさいてそれからいくつかの花が続いた。今思ってもモネの絵に出てくるような大きな花ではなかったから、ミニ睡蓮だったのかとも思う。確かに葉も小さくてそんな種類だったのではないだろうか。タイルの水槽が60×50pくらいのものだったから、家庭用園芸種だったのではないかと思う。水槽の周りにいろいろな植木鉢を置いて、庭を演出したけれど都会の小さな空間は「夢見るような」物にはならない。

それから後で小石川後楽園の奥の方まで行ったら睡蓮池があって、やはり小ぶりの睡蓮がたくさん咲いていた。睡蓮は日当たりが大切で、その睡蓮池もうっそうとした林を抜けたところにぱっと開けた空間にあった。明るい昼間の睡蓮池はまさに居眠るような姿でモネの絵の睡蓮よりも光あふれて夢見るようだった。
わが家の睡蓮は日当たりが足りなかったのだろう、だんだん咲かなくなり、家人も好奇心から今度は布袋草に切り替えてしまった。そしてまた建て直しの時その水槽も捨てられてしまったのだ。蛇足だがモネの「睡蓮」は上野の西洋美術館で常設展示だったが、だんだんに照明が暗くなってその良さが薄くなっていったように思う。印象派の光をとらえた作品でも褪色を防ぐためには照明を絞るを得ないというのは悲しいことだなと(仕方がなくても)思う。

いかないであなたと呼んで花となる悲しい妖精(ニンフ)睡蓮の夢
                         多香子
4



teacup.ブログ “AutoPage”
AutoPage最新お知らせ