2014/8/30

横浜山手  短歌

20年位前の事なので恐縮だが、その時で30年ぶりに横浜へいった。いつも鎌倉へ行ってしまうと、横浜へ降りることはなくて、テレビで見ていても「みなとみらい」と言う所が出来て大層人出がするらしいし、友達に聞くと元町の店は高いばかりという事だったので敬遠していた。「るるぶ」と言う本を貰ったのがきっかけで、山手の方へ友達と行って見ることになった。

横浜と言えば小学生の時「写生大会」(確かクレヨンメーカーの主催)で山下公園に行った記憶しかなくて、それは大層面白くない港の風景だったから大きな船の絵を描くのは私には苦痛だった。写生大会は大抵賞は貰えるのだが、その時の記憶はそんなものだった。(小さい時に入賞などの経験が多いのは大人になって凡人感が増すという事を私は知っている。)友達と行くには、その頃整備されてきたという山手がいいのでは、ということになっておばさん四人で出かけて行ったのだ。
山手にはカトリック教会、インターナショナルスクール、キリスト教系の女学校などがあり、海の方に向かって新しく「神奈川近代文学館」や「大仏次郎記念館」テレビの「なんでも鑑定団」で有名になった「ブリキのおもちゃ博物館」も出来た。私はその頃もう、登りが苦手な心臓になっていたので、タクシーで山の上に行ってしまおうと言う計画をたてた。午前中には石川町の駅に着き、やっと捕まえたタクシーの中から、左右に樹の間がくれのキリスト教関連の学校などを見て外人墓地につけてもらった。平日だったから、ゆったりとした緑の中の道を車で行くのも悪くない。外人墓地はさすがに人が多かった。予想よりも急な斜面にお墓が並んでいるので中へは行かずに写真だけとって、近代文学館の方へあるいていった。新しいエリア(と言うのだろうか)は道もきれいに舗装され、建物の配置も間隔を取って適切で、県か市か知らないが上手な開発と言う印象だった。
その時は時間がなくて、大仏次郎記念館にも他にも寄らず、港の見える丘公園に歩いて、海を眺めて休憩した。何月だったのか、自然の花木は無くて、いかにも園芸店が並べたような花々があるだけで、それはいただけなかった。海の向こうの方に新しいみなとみらいのヨットの帆のような建物が見え、レインボーブリッジが見えた。感動的でもなかったが車の渋滞や人出の事を考えると遠くから見ている方がいいのだと思われた。いよいよ名前だけはゆかしい「フランス橋」を渡ろうと道を下っていくと、下から遠足の学生たちがハアハア言って登ってきた。やっぱり車で上まで行って後は下りだけと言う私たちの勝利だ! と内心思ったことだった。下りきったところの(いまはもうない)メルパルクでお昼を食べて人形の家を観たがその事を書くと長くなるので割愛。

山下公園はやっぱり広いのにごたごたして、そこからJRの横浜駅までもバスが渋滞して帰り道はよくなかった。その後展覧会や三溪園などと何回か横浜へは行ったがそんな経験から20年も昔のことなのに、人には「横浜へ行くなら山手」と言い続けている。テレビなどで見る限り、今でもそのように思うのだが・・・

横浜の外人墓地に眠れるか赤い靴はき巻毛のスザンナ  多香子
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2014/8/26

「角筈」と末広亭  短歌

六月に二年ぶりのクラス会に出席して、また女学生気分になってしまったら、新宿の末広亭の事を思い出した。ネット検索は本当に便利で、年の人はパソコンはやらないからネットは嘘ばかりというのを信じているが、あそこはまだあるかしら、今あの場所はどうなっているのだろうというのは、簡単に出てくる。
昔(といっても50年位前だが)都電が走っていたころ、新宿行きの都電(12か15番だったか)の終点に「角筈」という駅があった。今では新宿区角筈という地名はなくなって歌舞伎町や西新宿になったという。角筈は「つのはず」と読むのだが、都電の終点がどの位置だったのかはわからない。そこから歩いてじきに「末広亭」があったのだが、当時それほどの繁華街でもなく、今は新宿三丁目の内だからよりわからない。町名変更の上に道路まで変わってしまうのは本当に困るというのがクラス会の場でも出てきた話だ。

「末広亭」は落語、色物の常設小屋で歴史は明治からと古いので、場所も50年前から変らないと思う。昔都電は時間がかかるが便利な乗り物だった。線路があるからバスと違って必ず来る。(バスだって来るのだけど、あんまり来ないと不安になる)靖国通りを新宿まで都電が走っていたから、学校から末広亭と言うのは一本道だった。誰が初めか学校帰りに落語を聞きに行くという事が、一部の女学生の間で流行ったことがあった。その頃テレビで若手落語家が流行って(今の「笑点」よりも前の事)小せん、円鏡、歌奴なんかが人気もあって、それを生で見に行こうと言うものだった。私も誘われて何度か行ったが、驚いたのは皆で若手の話が終わると楽屋まで行ったことだ。私は歌舞伎を見に行っていたので、役者の御贔屓さんというのはかなりのお金のかかるものと、楽屋訪問などしたこともなかった。しかし、寄席では女学生はお土産も持たずに楽屋をたずね、歓迎されていた。それは有名女学校の制服のせいだという事はすぐわかった。小せんももう死んでしまって今は別の代になっているのだが、あのころ制服の女学生を見るだけで落語家たちは満足し、お座敷のかかる旦那衆のお嬢さんたちだから大事だったのだろう。学校でも問題にはならなかった。

しかし今と違うとはいえ新宿である。最後のトリの演目まで聞いていては遅くなる。終電前に皆で引き揚げてきたのだった。だから、きちんと話を聞きたいときは、学校帰りで無くちゃんと着替えて大人もついて行ったのだと思う。しん生の亡くなる前にだいぶろれつが怪しかったが味のある「猫の皿」を聞けたことが、私のいい思い出である。

終電の赤い灯のつく一車両、角筈の道に停まって居たり 多香子
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2014/8/22

秀歌(36)宮柊二F『忘瓦亭の歌』  秀歌読みましょう

『忘瓦亭の歌』は、宮柊二60〜65歳までの昭和48年〜53年の作品を載せた第9歌集である。柊二は前からの糖尿病に加え、関節リュウマチ、眼底出血、そして昭和51年の脳血栓でいよいよ病人になり、思いどうりにならない生活を送ることになる。コスモスの仲間もだんだん欠ける人がでてくるし、歌壇文壇に死者が続いて、挽歌も多い。後半は自ら行くことのできない葬儀のこと、妻英子さんに代理を頼んだ歌、展覧会に妻を送りカタログの絵や写真に慰められる歌なども出てくる。
忘瓦亭という名づけは、自分の歌に「瓦石のやうなもの、そのコンプレックスを少しは忘れてみたい、という負け惜しみの名である」とかいている。また家の屋根を瓦で葺かなかったことにも由来するとも書いている。

老母らみまかりゆける子(ね)の歳の暮に生(あ)れたる初みどり児よ

厳しさは内に悲哀も住まはすか欅の並木冬を静まる

満ち足りて眠さめゆく山中の獣の朝を思ひこそやれ

花韮の咲く花のみが数え得る白さにありて春の夜の庭

雨つつむあかつきに覚め糖欠の震い来居りて拠所(よりど)なし今

心より身より力感失せゆきて人間一個ベッドにぞ臥す

コスモスの逝ける友らの忌の日増え全て覚えてゆくこと出来ず

歌一首書きなづみゐる夜の更やいづち行きけん宝石の時間

目覚むれば露光るなりわが庭の露団々の中に死にたし

大雪山の老いたる狐毛の白く変わりてひとり径を行くとふ

一首目の「初みどり児」は長女の子。初孫を得た喜びを素直に表してはいないが、彼にとっては未来へと生きる希望であり、その成長は何首も詠われる。4首目の低血糖による苦しみは、バセドー氏病のわが家の症状でもあるので、よく分かる。糖尿だとそのまま昏睡になることもあるから恐ろしい。集中には西行をしのび、旅もするがやがて体が思わしくなくなる。首尾「大雪山の狐」は自らの弱りを重ねてその死を思っているかのようだ。弱る心をあきらめと鼓舞する力が交互に出てくる。それを素直に歌に出せると言うのは宮柊二と言う人の地位がある程度決したからだと思うのは、穿ちすぎだろうか。
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