2014/11/28

秀歌(40)永田淳 三首  秀歌読みましょう

夏前に例の短歌出版の人と話していて「ここのところで永田淳さんは上手くなったね」「なんか坊やぼうやしていたのに」なんて二人で(私は面識もなにもなくて、歌を読んだだけなのに)褒めていたら、この間の「塔」の新体制の発表で来年から選者になると読んだ。永田淳さんはみんな知っているだろう、永田和宏さんと河野裕子さんの長男で40代に入ったところか、「塔」の歌人で妹も一家で「歌の家」の人である。短歌出版社「青磁社」代表でもあって、若い歌人の歌集を手掛けているようだ。

私が切り抜きをして、時々このブログにも紹介していた「毎日歌壇」の月替わり歌人の五首詠が連載終わりになって残念なのだが、その切抜き袋に淳さんの五首「月を見るものとして」が放り込んだままになっていた。読みづらい殴り書きの日付なのでどうも二年位前のようだ。その中の三首を。

大切な時間と思う二人して飲み明かしたるあの夜のことも

サンズイは好きな偏なり二画目と三画目とをつなげたりして

大鷲を望遠鏡に見ていたりガリレオの目に映らざりしを
(湖北野鳥センターにて)

この歌を読んだ時、永田さんがとても大人になった気がしたのだが、読み返してみるとやはり若いし(この頃若いと言うのがどういう物なのかちょっと解らなくなってきているのだが)今、心を惹かれるのは軽い文語体を現代仮名遣いで書いている事だ。それは私がこだわっている部分なので、永田さんがこだわっているかどうかは分からないが、歌がそれによって生きていると思うのだ。父君の永田和宏さんもはじめは新仮名で書いていたが年を経て旧仮名になったと言う。若い人でも旧仮名を使いたがる人がでてきているが、雰囲気が出ると言う理由なら私は是としない。

淳さんの歌について語らず横道にそれたようだが、仮名だけでなくカタカナ語の多用された歌も読んだ。現実の生活を基準にすればカタカナ語は身の回りにずらずらとある。これからの歌はそれらを雰囲気の為でなく実物として取り入れていくようになるだろう。そして「文語」というものは表記とは別に「短詩形」の限られた文字数のためにはかなり便利な省略形なのだ。私の感覚なのだろうかあまりに重い文語の歌は、肩がこるような気がする。今でも自分の体の中にかすかに残っているような軽い文語が(口語とまぜたりしても)好ましい。この先淳さんがどのような風を選んでいくのかとても楽しみである。
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2014/11/23

家の猫D  家の猫

家には前のビルの時から「猫屋敷」と呼んでいる棚のような物があり、前の猫「ウメ」から今は「小太郎」に引き継がれている。それは幅90p高さも90p奥行きが40pぐらいの木の本棚のようなもので、私が設計をして主人が板を買い作ったものだ。
上の方に棚があって、ノートや辞書など今では私の短歌用のものも多く入っている。下は二つに区切れて細い片側も物入れで広いほうに、毛布やタオルケットを入れて猫の寝床になっているのだ。その棚は今のフロアではリビングの横についた小六畳の畳の部分の壁に置いてあって部屋の真ん中には炬燵がある。

家の小太郎が来たばかりの時(二月だったから)その炬燵に逃げ込んで三日籠城したのだった。三日目に猫トイレに駈けこんで、それから水を飲んだら、後は慣れてしまったのはおかしかったが、ここが猫のお屋敷だよと棚の下を教えてもすぐに炬燵のなかにはいってしまった。怖がりなのだろうと小さな猫柄の布でカーテンをつくってやったら、それからは時々そこに入って寝るようになった。
夏になったら、やはり暑いのだろう床に転がったり、私達のベットに乗っかったりして寝るようになり、とうとうお屋敷にははいらなくなってしまった。それは家全体に慣れていくという事で、来てから一年もたつとすっかり主のような顔をして暮らすようになった。
今年の夏は私のベットの足元で夜を寝るようになり(本来の猫は夜行性のはずだが、近頃の室内飼い猫は大抵人間と同じになる)夜の11時になると「寝るんだねるんだ」と騒ぐようになった。だんだん秋になって布団をかけるようになったら、抱かれて寝るのが嫌いな猫で布団の上に乗って私達を押さえつけるようになった。五キロの猫だから重くて寝返りも打てなくなるので夜中に押しやるのだが、またすぐ乗ってくる。
困っていたらこの所の寒さのせいか、昼間は炬燵(火は入れてない)にはいっていたのが、時々思い出したようにお屋敷に入って寝るようになった。うまく行くと夜中そこで寝てくれるので、私達もらくらく寝られる。万歳と思っていたら毛布を掛けるようになって、また私たちの上に乗っかり、このところ朝にストーブをつけると早速その前で火に当たると言う猫らしい勝手者である。まったく猫の目のようにくるくる行動する、でも可愛い小太郎13歳なのだ。

この冬はいばった顔の猫になり僕の場所だとしゃべる小太郎  多香子
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2014/11/18

永観堂と晶子の歌碑  短歌

前回の京都旅行の続きである。永観堂も南禅寺も嵯峨野についても案内書であたっていったし、源氏の関連の話も読ん出てかけた。それなのに永観堂のお庭を巡って池のほとり、素晴らしい赤の紅葉の樹のそばに一本の案内板があって、この場所が「粟田山荘」だったところであり、晶子の歌碑があると書いてあってびっくりした。前にこのブログでも書いた「鉄幹と晶子と登美子の三人が恋の駆け引きの末に」京都旅行の一夜を過ごした場所であった。私の中でそれが永観堂とは全く結びついていなかったので、思いがけない邂逅は感激物だった。

歌を詠い始めた高校生の頃、歌の勉強などなにも思わずただ「明星」のこの三人の恋のもつれに憧れて、歌を読み関連の文を読んで受験勉強にしていたのだ。その当時は登美子の儚い人生を思い、晶子が捨て身で鉄幹を獲得したことに自分もそのような恋がしたいと焦がれていた。その池の所にある歌碑には

秋を三人椎の実なげし鯉やいづこ 池の朝かぜ手と手つめたき 晶子

の歌が書かれ、三人で逍遥した時の歌のように解説されているが、「鯉やいづこ」なので、これは後から去って行った登美子を思っての歌になると思う。しかもその時は晶子が鉄幹とはじめてその旅館に泊まって(当時鉄幹は離婚前)むすばれた時ではないかと思う。「手と手つめたき」は晶子と登美子ではなくて晶子と鉄幹の事だろう。「明星」にはあからさまにこの三人の歌が発表されているけれど、その時期や相聞歌などをばらして配置してあれば事実はつかみにくい。晶子の歌に粟田山の朝の心をうたって

すねてすねてみことばきかずよそを向き椎の実ひろひ野菊つみし朝

むねの清水あふれてつひに濁りけり君も罪の子われも罪の子  晶子

の歌があるのも、晶子の情熱的ながらしおらしい乙女の姿を思わせる。当時晶子は堺、鉄幹は東京、現代より遠い距離で京都は忍びあうには良い場所であったろう。その多くの恋の歌の風景を見ているのだと、私はお得感いっぱい(なんておばさんな事!)になったものだ。京都といえばタクシー運転手の悪かった事とか、宿の女将さんの裏表のあることなど嫌な思い出もあるけれど、やはり「古の都」素晴らしいものに出逢えるのだと感激した旅だった。
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