2015/1/30

りこりすとSECT(セクト)  短歌

今回は少しお若い方たちの御紹介をしたいとおもいます。折本のところで使わせていただいた千原こはぎさんのお仲間で、(この言い方が失礼でないのか分りませんが実にいろいろな力を持った方々です)りこりすというグループが「私立タイムライン学園生徒会会報 」というホームページでいろいろな企画をおこなっています。
はっきりこうだとは言えないのですが、お嬢様学校の体裁を取った薔薇の女学生たちの歌物語のようなものがのせられています。学園長が「うたつかい」の嶋田さくら子さんであることからも、「うたつかい」や「うたらば」に集まった短歌クラスタの中から派生したお遊びの場だったのかと推察しています。

一時はゼロ世代と呼ばれ、歌壇からは横目で見られていた人たちが、ネットとツイッターと言う用具をもって技術を駆使して自分たちの場を広げています。若い人への歌壇評はそれぞれ書かれているので、私などの言う所ではないのですが、「うたの日」などの横隅に参加させてもらって、彼らの行動力技術力にびっくりしています。はじめのころ同じような傾向の歌仲間が集まって、と危ぶんでいた向きも彼等それぞれが、歌の力も向上させ自分に合った結社にいる人、独立路線でいる人など、立場を越えて仲良くしているのは若さの特権かなと思います。

その女学校のとなりの男子校が「SECT(セクト)」でチームセクトは中牧正太さん、泳二さん、chariさんの三人の男性です。わたしはおばさんなので、イケメン三人組の方が気になります。なにしろ中牧さんは皆から王子と呼ばれているし、泳二さんとchariさんは「風の*歌会」でご一緒しています。たぶん40代前半なのでしょうが、短歌の実力のある人たちです。
その「りこりす」の仲間たちが朗読版の短歌企画で音声版ボーナストラック特別編「薔薇の園でお目覚めなさい」というのをつくり薔薇の映像まで付けてホームページに載せています。私は朗読と言うのがあまり好きではなかったのですが、「SECT」の男性の麗しいお声にはやられてしまいました。クリックで飛べると思いますので、私ほどのお年の方でも冥途の土産にぜひ聞いて堪能して下さい。
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2015/1/25

川喜多さんの鎌倉の記念館  短歌

東和映画の川喜多さんといえば、私達には輸入映画の買い付け、翻訳、配給となつかしい川喜多長政、かしこ夫妻である。娘さんの和子さんの名をちょっと失念していて、あれっと思って「東和 川喜多」で検索したらウィキでも色々な事が出てきた。
その中で鎌倉の雪ノ下にあった大きな山をしょったお屋敷が、市に寄付をされ<鎌倉市川喜多映画記念館>として2010年4月に開館とあった。土地は川喜多家が市に寄付し、市が5億円をかけて記念館を設立、毎年約3000万円の運営費を市が支払い、川喜多財団が運営しているとなっていた。鎌倉は谷戸が多く平地が少ないので、意外に地価が高い。路線価のない所もあるが、その場合は付近に準ずるので山をしょったお屋敷は相続に苦労する。市に寄付してしまいたいのだが、有名な文化人の場合建物から中にある贓物まで価値があったりする。市には十分な予算がないので、保存を頼まれると維持費に苦労することになるのですんなりとは受け取らないこともあると聞いていた。

旧川喜多邸は小町通りから踏切の方へ行く道にかなりな広さで板塀にかこまれたお屋敷だったが、山に添って小高い所に二階建ての大きな建物があったので、歩いていても望むことが出来た。昔は主人の家の行帰りに有名人の家などわざわざ散策することも無かったから、たまにお寺に花を見に行くときに通りすがりで誰それの家と見ることはあった。主人の家も山をしょって(山は市の物だが裾は敷地に入っている)いる分土地が広いのだが、川喜多さんのところは何倍もあるし駅にも近いので個人の分の相続は大変だろうと言っていたものだ。というのは細い道を挟んだ向かい側も川喜多さんのところで、そこは東和(映画会社の)の寮となっていたから法人持分だったのだろう。

お屋敷の建物は、わが家が昔旅館だった時の感じに似て、部屋数の多い為に二階も外廊下がついてガラス窓が並ぶ日本家屋だった。そのころには我が家は神田に越して、上野の家も売ってしまったのでビルに変り、川喜多さんの家を懐かしく見上げたものだった。ストリートビューで見てみると記念館は平屋の日本家屋になって、雰囲気はあるが入り口なども舗装されきれいになっている。旧川喜多邸と地図にある奥の方は見られないが、景色に映ってない所を見ると今は無いのかもしれない。向かい側の東和寮も駐車場になってしまったようだ。記念館のホームページをみると映画の上映会などのイベント企画で、貴重なものが見られるようになっているようだ。

うわさではどこそこに居たと原節子 鎌倉の町はまぼろしの住む                        多香子
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2015/1/20

「この道」  短歌

「この道」は北原白秋が大正14年に書いた詩を翌年「あかい鳥」に発表したものに、昭和2年山田耕作が曲をつけて歌曲として世に出、現在でも愛されている。こういう歌を「童謡」とよべばいいのか「歌曲」と呼ぶか悩むのだが、白秋にすれば「詩」を書いたのだろうし「白秋詩集」として出版されてもいる。それに素晴らしい曲がついて一つの「名作」が出現するということは「砂山」の文でも思ったコラボレーションというものなのだろう。
白秋はこの詩を北海道旅行の時に書いたと言う。この詩の中に出てくる景色は札幌の景色で、時計台はあの時計台だと言う。今の札幌を思うと何もかも違うような気がするが。

「この道」
(1)この道はいつか来た道、ああ、そうだよ、
 あかしやの花が咲いてる。

(2)あの丘はいつか見た丘、ああ、そうだよ
 ほら、白い時計台だよ。

(3)この道はいつか来た道、ああ、そうだよ、
 おかあさまと馬車で行ったよ。

(4)あの雲はいつか見た雲、ああ、そうだよ、
 山査子(さんざし)の枝も垂れてる。

白秋の詩にはその時代の新しい物を取り入れたようなモダンな感じの中に、しみじみとした抒情があって、その前に流行った大正デモクラシーや風俗だとも思われる。今は「昭和レトロ」とはやされているけれど、大正時代の方が大分しゃれているように思う。実は私は長い事この風景を外国の物だと思っていた。随分小さな時から中学生ぐらいまで、北海道と言うのは社会地理で習うのと、旅行に行った人から話を聞くだけだったから、それらの中にこの歌のような風景は出てこなかったのだ。
この歌の光景は丘の上へと道を馬車で行くと、開けた彼方の白い建物が高い時計台を頂いているという。そして子供が見たことのない「あかしや」や「さんざし」が咲いていると言うのは、日本ではないお話に出てくる外国のことに違いないと小さな私は思っていた。大人になって札幌の昔という事を知った頃には、それなりに納得する知識を持っていたが。北海道には行ったことがないが、今はテレビでも、ネットでも遠くの景色を見ることが出来る。

外国の景と思いて「この道」を友と歌いし女学生の日  多香子 
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