2015/10/26

鎌倉の家と川田順  短歌

主人の実家が鎌倉に有って、このブログにも時々鎌倉の話を載せたけれど、叔母が亡くなって直接に関係する人もいなくなったので、その実態を少し書いてもいいかと思った。私が結婚した時(主人はお婿さん)まだ「奥様」という方が生きていて、その人が歌人川田順の実妹であった。私の家では主人の家が何だかよく分からなくて、父は反対の気持ちも強かったようだが、当時順さんの「老いらくの恋」という事件は記憶にあったらしく、そのような家と主人は血の繋がりはない家族ということで納得されて私たちは結婚した。

「老いらくの恋」の顛末は検索していただくとして、主人の叔母は鎌倉大町に屋敷の有った「藁谷家」に小間使い奉公にあがり、戦後旦那様が亡くなって奥様の面倒を一手に引き受け「養女」となったわけなのだ。藁谷家は延岡藩の家老で西南戦争で西郷に組し(しかも)戦わぬうちに戦争は終わって責任者として東京に送られて裁判、許されてのちに鎌倉に暮らしたという家柄であった。主人の母が私たちの結婚のとき「藁谷」の家を明かしたくなかったのは(姑には何だか分らないが)政府にたてついて罪を得た家柄であったから、と後で知ってびっくりした。私は「西南戦争」というのは歴史で習う近代化のための内戦という認識だったのに。

藁谷家の旦那様はその孫の代か、分家筋で今の「三井物産」で農作物の研究をし、静岡の「石垣苺」生産の指導をしたと言う。社長にもなったが割と早くに脳卒中で引退、大町のお屋敷をたたんで扇ヶ谷に山荘を立てて棲んでいた(昭和12年ごろ)。福沢(諭吉の婿の)桃介さんと仲が良くて、戦争中は終戦の手立てを二人で話しこんでいたと叔母が言っていた。

主人の一家は、戦争がはげしくなった頃四谷に住んでいて、洋服の仕立て職人として店を持とうという寸前で爆撃(母の話では油をまいて爆弾を落としたので、四谷は焼け野原になったそうな)にあい、鎌倉の妹の家の庭に疎開したのだ。そして終戦後不自由な生活ながら主人の父は上流の人も多かった鎌倉の紳士服店の縫い子として、そのまま仕事を続けたのだ。
これが主人の家の話で、御大層な母屋とその裏側で暮らした〇〇家(主人の旧姓)のはなしである。
川田順さんは住友の総理事にもなろうと言うのを捨てた人、辻堂に移って来てからも叔母は「順旦那様」と慕っていた。ばらばらな話になったが順さんのお歌を二首載せて終わりにする。

いもうとの嫁入り姿亡き母に見せまつらばと乳母の泣くかな

山空をひとすじに行く大鷲の翼の張りの澄みも澄みたる  川田順
4

2015/10/21

小諸の懐古園  短歌

東京では紅葉は12月だが、信州は九月の声を聴くと草紅葉が始まる高い山と、盆地のような長野とでは随分開きがある。紅葉の美しいだろうと思われるのに行かれなかった所に小諸の懐古園がある。
前に「小諸なる古城のほとり」で書いたが(こちら)随分昔に私たちが出掛けたのは10月の初めで、コスモスは咲いていたが野辺山から小諸へ下っていくと、どんどん暑くなってまだ夏のような陽気だった。その時限りだったので園内にある紅葉谷と言う場所の植生がきっと紅葉したらすごくきれいだろうと思いながら見てはいないのだ。

園内と言ったが、懐古園は歴史は古い小諸城址で代替わりを重ねて最期は牧野氏の城として明治期に廃藩、大正期に公園に作り替えられたもので、入り口は江戸期の三の門が遺されていて、拝観が出来る。私はテレビで見たのだが、大手門や三の門は藩主が居なくなって手も入れられず風化しそうになっていたものを藩士たちが払下げてもらい、保存会を作り入園料では藩士の生活も賄えないので「信州そば」を作って園内に休憩所兼蕎麦屋を開いたと言う話だ。

確かに私達も(40年位前の話)園内の蕎麦屋でお昼を食べたのだが、当時その情報も知らずソバ畑の写真をみて直接そば栽培をしているのに美味しくないのは(と感じた)出汁が東京とは違って慣れない味だからかななどと思っていた。
何と言っても藤村の「小諸なる古城のほとり」の詩が心に有って、懐古園が市民公園として(水戸の偕楽園もそうだが水戸よりもっと狭いので)通学路にもなり遊園地、動物園も備えているとは思いもしなかった。共通切符で動物園にも入れたのだが、藤村記念館に時間を取られてそれどころではなかった。小諸時代の(中学の先生)藤村資料は結構豊富で写真も多く満足できるものであった。

そして駅へ戻ろうと汗をかきながら紅葉谷という場所を越して、共通券の「火山博物館」は見るも暑そうだからやめ、千曲川を見ようと奥の土手の方へ登っていくと「小山敬三美術館」があった。素通り出来なくてはいってみると小さな美術館なのに一番大きな絵は廊下を利用して奥行きのある場所から眺めることが出来、敬三の浅間山の風景にぐっと引き込まれる眼福の思いをした。
紅葉谷はまだ青々としてこれが錦秋であったならと思われた。その時期にもう一度とおもいながら二度目はなくて、いつか行く旅の項目になってしまった。

口ずさむ古き詩歌のやさしさよ 小諸城址に陽は傾きて  多香子
4

2015/10/16

秀歌(56)魚村晋太郎「角川」12首詠より  秀歌読みましょう

魚村晋太郎さんは1965年生まれというから、もう50歳になるのかと思う。初めて名前を知った時は三年位前。ある歌会で別の名前でやってらしたが「玲瓏」のホープということで、皆さんが支持していたから、まだ40代ですごく若いなという気がした。はじめて参加した私に勿論コメントなどはつかなかったが、そっと点を下さったのは哀れに思召したのだろうと思う。だからこの項は何か書きづらい。

1996年に「玲瓏」に入会、塚本邦雄に師事し、2004年には第一歌集「銀耳」で第30回現代歌人集会賞を受賞。現代詩でも活躍していたので、塚本、寺山修二を継ぐ者と評価されていた。「玲瓏」編集委員、京都在住。
角川「短歌」去年の12月号に12首を寄せていたので、五首を並べる。

「砂」
ちいさな火、水面をわたりゆくときに手はささげをりそのちさき火を

砂あびる雀みてをり砂あびるといふたのしみをつひぞ知らずに

くらい水面のやうなセダンの窓硝子おれのあたまをつぶさに映す

果たされなかつた約束の展示室みたい、とふるい図書館を言ふ

賢明な距離をたもつててらしあふ花水木、夜の肩にふれたし

第一歌集のころは、鋭く冴えたナイフの様といわれた歌が、第二歌集「花柄」で愛も人間も詠むことに議論があったようだ。それは一人の人の成長によって変わっていくものなのに、批評会などでそれがいいとか悪いとか言ってもらえるのは支持者がいるという事で、期待される歌人ということなのだろう。歌会の中で名前を伏せた歌の内、難解なでも上手いなあと思うお歌はこの人の物が多い。上のお歌は難解という事も無く、具体と心象の間のわれが美しく詠われていると思う。
5



teacup.ブログ “AutoPage”
AutoPage最新お知らせ