2015/11/27

「毎日歌壇」掲載  毎日歌壇他

暖かい秋からもう暖かい冬になるのだか、湯島の菊祭りも一度も見ないで過ぎました。銀杏の黄葉はすぐ近くでも並木があるのですが、今年は陽当たりによって遅いようです。東京の紅葉は12月と言いますが、きゅっと締まった寒さが来ないと、紅葉の赤は出てこないのではないかと思います。

この前特選をいただいてから、ずっと採られなかったので(もういらないよ)と言われたようなやるせなさに憑りつかれつつ、だんだん日常の生活がきついので、淡々と出していればいつかまたと思っていました。
でも背中が痛かったり肩がガチガチになったりすると、いいことがあったら半分ぐらい背中も軽くなるのに、とぼやいていました。
そして23日付「毎日歌壇」米川千嘉子選に採って頂きました。正直嬉しいことです。歌は

淋しくて回転木馬に乗り込めば同じところできらめく東京 河野多香子

米川さんは早稲田短歌から「かりん」で馬場あき子に師事して「かりん」編集委員。現在56歳ぐらい、1985年、第31回「角川短歌賞」2013年、歌集『あやはべる』で第47回迢空賞を受賞というのは、若くて実力を認められたということでしょう。御主人は同じ「かりん」の坂井修一さん。理系の東大の先生で私がN短でとって貰いたくて、現代短歌の勉強を始めた基になった方です。

少し背中の痛みを忘れることが出来るでしょう。米川さま、ありがとうございます。
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2015/11/20

家の猫H  家の猫

小太郎は奇跡の猫か、パソコンが打てた。なんて書いたら大抵の人は「あ、あれね」と鼻で笑うだろう。昔ムササビか何かが同じキーを押し続けててててててててててててててててなんてなってしまうコマーシャルがあったから。
勿論それもやれる。でももっとすごいことが起こったのだ。

私がちょっと用事にパソコンの席を立った時、ノートパソコンのふたを開けたままにして置いたのはいつものことで、すぐ戻るつもりだし時間がかかればスリープするからだ。少し手間取って席に帰って来ると、小太郎がそそくさと逃げて行く。あれ、と画面を見たらデスクトップに小さくウインドウがでて、「このショートカットをゴミ箱にいれますか」となっているではないか。えっ私は何にもしてないはずだし、必要なアイコンだし、何だろうと狐につままれたようだったが、もしや猫がキーを押したのではと気が付いた。
しかし「ゴミ箱に捨てる」ためには、アイコンを右クリックしてそれから「これをゴミ箱に入れる」か「削除」をおさなくてはならない。そんな複雑な事が、猫がキーボードを歩いただけで出来るのだろうかと言う疑問が出た。主人も息子も「そんなこと」と言って取り合わない。

あんまり考えてもなーと思っていた時、突然わかったのは「ノートパソコン」だからということだった。ノートパソコンには「パッド」がついていて、(私はあまり使わないけれど生かしてある)その部分で指を横に引っ張るとカーソルが動くし、叩くとエンターになる。そのためにはクリックボタンを押さなければならないが、右も左も幅があって猫の足でも十分押せる。猫は意図しないでデスクトップに貼ってあったアイコンを選択して、右クリックで「このショートカットをゴミ箱に入れますか」を開いたのだろう。何と言う天才猫(いや、偶然、偶然)あと一歩パッドをたたいたら、そのアイコンはごみ箱行だった。別にショートカットだし、ごみ箱に行くだけだし大丈夫だけど。

その後も私の書きかけの文に妙な言葉を書き加えて、ててててててててててててのようなことで気が付いたから、席を立つときは作業をとりあえず終わらせて、ふたを閉めてからにするように心がけている。

恋文を書かなくてよし、小太郎は玉を無くしてもう13年 (手術済み) 多香子
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2015/11/13

秀歌(58)佐藤弓生「眼鏡屋は夕ぐれのため」  秀歌読みましょう

佐藤弓生さんは「かばん」所属で1964年金沢市生まれの翻訳家でもある歌人。あまり自分を語らないと言われるがご主人の作家高原英理さんと出版物のブログもやっている。
「かばん」同人らしい比喩やめくるめくような言葉の使い方で、ますます元気になっているような気がする。などと言っているが先頃出版された歌集『モーヴ色のあめふる』もまだ読んでいない。それでも「かばん」の中では大好きな歌人だ。

角川「短歌」の近頃のお歌から引こうかとかも思ったが、私は彼女が第47回角川短歌賞を受賞した(2001年)「眼鏡屋は夕ぐれのため」がとても好きなので、30代の作品ではあるが、そこから7首を引くことにした。

「眼鏡屋は夕ぐれのため」

眼鏡屋は夕ぐれのため千枚のレンズをみがく(わたしはここだ)

胃の底にいま銀時計まいおりて井戸の眠りをねむる肉体

泉とはいかなるところ鹿の目をしているきっといまのわたしは

風の舌かくまで青く挿しこまれ五月の星は襞をふかくす

木犀の咲きみだれたる庭あれが木犀と告げたまいしはたれ

生まれる子生まれない子とひしめいて低温ポットの中のきらきら

風を聞く 踵をなくしてしまうまで帰るところが海と知るまで

「わたし」の実在を強く感じる作品。今の方が比喩も強くなっているが、この作品では主体の感覚は掴みやすい。肉体的にもどこまでも「女性」を感じるのは私が女性だからだろうか。
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