2015/12/25

NHK短歌「一月号」  NHK短歌

今年最後の更新となりました。このブログを始めて足かけ三年たったのだなあと思います。去年、一昨年の年末年始の記事を見てみると、同じようなことが書かれているのですが、母の介護生活のご褒美のように一年間少しずつ、投稿作品が選に採られたりして嬉しい思いもしてきました。

殊に今年は「新聞歌壇」の投稿をはじめて、思いのほか掲載されたので(実は九星占いでは年に暗剣殺がつくので、こんなでいいのかという思いもあったけど)N短のほうは多くを望むまいと思っていました。それでも今年にすると最後の「NHKテキスト」一月号で佳作に二首とって頂きました。今年の締めくくりに嬉しい事です。

栗木京子選 「友達」佳作

まだ青きいがに陽は射し「友達のままで」と別れた栗の木の下 河野多香子

この歌は苦手なお題なので、何首か詠んでみてこれと思ったのですが、よくみたら「栗の木」と選者のお名前が入っているではありませんか。これは栗木さんに嫌われるかな、ま、いいやと出してしまった物です。怒らずに採って下さった栗木京子さま、ありがとうございました。

佐伯裕子選 「胸キュン」「眼鏡」佳作

フレームを替えて君かと見間違う、やさしくなった顔の輪郭

「胸キュン」には若い短歌を始めた「うたの日」の人たちが増えてきて、その感性には負けそうになるしNHKも若い人枠としているのだろうなと思いながら、佐伯さんが好きで年寄りだけど出しています。
珍しく主人がフレームを替えた時に感じたことを歌にしたのですが、「見間違う」はずないから、クラスメイトの恋人ぐらいの感覚でいいかなと思っていました。佐伯さま、ありがとうございました。

今年一年、掲示板「風」の立ち上げとか、いろいろあったけれど辛い思いより歌の仲間と切磋琢磨していられた楽しさの方が多かったような気がして、幸せなのじゃないかと思っています。本年は皆様いろいろとありがとうございました。来年もまたよろしくお願いいたします。
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2015/12/18

秀歌(59)河野美砂子 「角川」12首詠より  秀歌読みましょう

河野美砂子さんは、私と苗字が同じなので気にはなっていたけれど、あまり読んだ事のない方だった。「塔」の歌人という事は知っていたがピアニストとして有名な方とは今度初めて知ったことだった。京都生まれで音楽の学歴はネット上でも出ているが、生年は出していないようで60代かしらと言う位。
第41回「角川短歌賞」(1995)の「夢と数」はやはりピアノが主題であったが、今回「角川短歌」9月号に寄せた12首は自分の父親を詠っている。なぜかこの連作には音楽を感じなかったのは私が距離を取ってみているからか。五首を引く

「手について」から

雨やめば緑いきほふ夏草に呑まるるやうに父がおとろふ

眠りといふ沼のほとりに父は坐す蝉声のうすい幕がひろがり

父が父であることずっとわすれてた七月の夜が小さくなるほど

砂深く掘るトンネルの手のさきがくづれて触れき生(なま)の父の手

その甲を見せてわたしに手を振れり戦争に行かなかったといふ父の手が

私の父は随分前に七年の植物状態を経て亡くなったが、しばらくは父の事を詠う気にはなれなかった。今ときどき昔の父を詠んでもいいかなと思う所に来ているが、今度は母を詠えない状態にいる。美砂子さんの父君がどんな方であったかは、この12種からはよく分からないが、弱って行く父をまだ距離を保って見つめている所であろう。
5首目の「戦争に行かなかったといふ手」私の父も結核で兵隊検査に落ちて行かずにすんだ。そのことは戦後の生活再建に幸いした。このお歌ではその意味するところはよく分からない、事実を述べただけのような気もする。手の甲を見せているという事は後ろを向いている、(照れか、関心を持たなくなっているのか)その手の状態の切り取りはうまい。
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2015/12/11

錦華小は「御茶ノ水小」に  短歌

私の卒業した小川小学校は統廃合で廃校になってしまった。西神田と錦華と三校が統合されて、場所は錦華が残ったが名前は新しいものに変ると言うので、反対運動まで起きる騒ぎがあった。もう23年位前の事で、気風がいいと言われながら粘りの弱い神田っ子たちは反対と言ったってすぐ折れて、行政の良いようにされてしまった。
麹町地区は今は普通のマンション族だが、当時は官僚や政治家、有名人などが住んでいてごねにごねたので、「番町」[麹町」の校名は残った。それ以前からの千代田区の「麹町地区」と「神田地区」の疎遠な感じはより深まったといえよう。

錦華小学校が残ったのは、三校の中間で登校時間の問題もあったのだろうが、一番に歴史が古く、なにより「夏目漱石」が卒業した学校と言うのが理由だったろう。
漱石夏目金之助はウィキでは、高田の馬場の名主の子に生まれ裕福な家だったが何故か古道具屋に養子に出されたと書いてあるが、私の記憶では御家人の子供で明治の御一新で没落し、養子に出されたのだと思っていた。手元にちゃんとした評伝が無いのだが、ウィキでは御家人と言うのは古道具屋のあとの養子先らしい。
どちらにしても漱石の子供のころは世の中も人々も混とんとした複雑な時代であった。その古道具屋が夜店に店を出して、籠に赤ん坊の漱石を入れっぱなしにしていたので、姉娘が見つけて実家に連れ帰ったと子供のころの雑誌で読んだ記憶があった。
錦華小学校にはいったのはそのずっと後で、その時は御家人の家からも離れて実家に帰っていたのだろうか。

三校統廃合の話であったが、新しい名前は「御茶ノ水小学校」でまるで「御茶ノ水」の付属みたいな名前になった。「なんと恥ずかしいこと」と私たちは嘆いたが、いつのまにか定着したらしく甥や姪が通った頃には「おちゃしょう」と平気で呼んでいた。新しくなったのは名前だけで校舎は建て替え待ちだし、子供の数は少ないが校庭の隅に夏目漱石の碑は残っている。

漱石が夜店の籠にいれられて店番したのも明治の代のこと                      多香子
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