2016/5/27

家の猫(10)  家の猫

猫歌の歌集を作って、振り返ったら「家の猫」小太郎の話はしばらく書いていない事に気が付いた。「猫と暮らせば」では前の猫「ウメちゃん」が死んだところまでで、小太郎は出てこない。小太郎が来たいきさつはジャンルの「家の猫」の項を呼んでいただけば分るのだけど、彼ももう15歳になり、老猫らしくすっかり痩せてしまった。
近頃都会では、犬猫は室内飼いをして手術をし、殺処分ゼロをめざしているから猫も良いだけ太って八キロ級の猫もざらになった。小太郎は保護施設で六キロを切るくらいまで減らしていたが、家に来たときは五キロ半で抱くと重くて手が疲れるようだった。それから三年で特にダイエットもしないのに、だんだんスリムになって今では三キロ半で、背中の骨がごつごつと手にあたるようだ。

私は、猫はせめてお医者にかけず、自然に暮らしてほしいと思っていたのだが、老猫はことに麻酔や薬で弱ることがあるので何もしないでいようと思っていた。ところが小太郎は15歳で牙が四本とも抜けていないのだ。前のウメちゃんも、ずっと前のミキちゃんも長生きしたが牙は全部抜けて物を食べていた。小太郎は抜けない代わりに歯が痛むらしくて、ときどき口をペロペロしては「チャッチャ」と音を立てていた。ある日あんまり痛かったのか、めったに吹くことのない猫が、自分の手で口を撫でて「ファッファー」と吹いていた。

丁度、保護施設をやっている知人の所(小太郎のいたところ)に用があって、電話のついでにその話をしたらほどなく彼女が獣医さんの薬を持ってきてくれた。小太郎は(忘れていたのか)彼女の顔を見て大急ぎで逃げて行ったが、とっつかまえて薬を飲ませたら、大層効いたみたいでまたカリカリが食べられるようになった。今の薬は動物用に細い筒状の注射器が付いているのは助かった。
小太郎の顔を見て知人は「目がきれいだから大丈夫」と言って帰ったが、私もそう思っていた。昔から「まいった狸は目で分かる」と言うのだから。

捨てられた傷を抱えて小太郎はわが家に来たり、いま王子様  多香子
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2016/5/20

読売歌壇掲載  毎日歌壇他

21日毎年の大学病院の検査の結果、今年もクリアしました。心の中を薫風が吹いているような気持ち良さです。このブログも三年前の五月に始めて、初めの方に「万歳、無罪放免」という記事を書いたなあ、と思い出したりしています。

私は毎日歌壇の投稿が主なのだけれど、小池光さん(猫氏と言われる猫好きで)の猫の歌が好きなので、せめて私の猫歌を見てもらいたくて「読売新聞」の小池欄にも投稿を続けてきました。友人が「読売」なので、教えてねと頼んでいたのですが、やっぱり難しいなあと思っていました。
小池さんが「思川の岸辺」で読売文学賞を取られた時も、すごくうれしくて師匠に電話してしまいました。(師匠は帝国ホテルの授賞式に行ったそうです)
毎回猫歌では、嫌になるかもと出しておいた歌が5月16日(月)の「読売歌壇」に掲載になりました。友人からのファックスで午後三時頃に知って、すぐそばのコンビニで新聞を買いました。たった一部残っていて、買えてよかったです。歌は

声あげて夫を叱りぬ はじめてのことなれば胸のざわつきやまず    河野多香子

何時ものわたしの歌より、実生活を感じさせる夫婦の歌で、載ってからなんだか夫に悪い事をしたような気分になりました。普段は虚構や思い出の恋をさも今のように詠っているので、あれと思う人も居るでしょう。「夫を叱りぬ」と言う強い口調にはなんらかの不都合があったことを感じさせますから、あの人の家って何かあるのかしらなどと思われるかもと思うと、ご近所には「新聞に載った」と騒げないなと思います。採用はありがたく嬉しい事です。小池さんありがとうございました。
でもやっぱり、小池さんには猫の歌で採ってもらいたい。これからは駄目でも猫の歌を投稿して行こうと思います。
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2016/5/13

藤の花とあれこれ  短歌

色々と忙しくて花を堪能することは出来なかったが、今年は神田祭が陰(表の年にやる)なので買い物のついでに藤棚だけは見に行った。年によって花付の変るものだが今年はなかなかの盛りに出会った。駐車場の日除けを兼ねているので、花房は長くないけれど一重と八重とピンクの三種類が丁度よく咲いて葉が茂ってしまったのを除いては◎だった。

いつも藤と言うと正岡子規になってしまうので、今回は「古今」からと思ったが中々藤の花は出てこなかった。平安ごろは藤棚では無く山の藤のようにからませるものだと説明にあったが

わが宿の池の藤波さきにけり山ほととぎすいつかき鳴かむ   よみびとしらず

この歌は古今集では夏の分類である。

先月、放送大学を何となく見ていたら「黒いマリア」の題で四季のある国は日本だけでなく、世界中にかなりあってそれらは古くから農業によって構成されてきた国だということ。宗教も汎神論的に植物が種を撒かれ目を出し収穫され種を落として土に眠る、その循環が生→死→生と終らないことを四季の中に見つめてきた。一神教は死は死であり天国に行ってそれで終わり、天と地は別けられている。
土着の民族は(ことにどこにでも神を見る汎神論の信者は、長年培ってきた風習を捨てることが出来ず、征服されて改宗させられても土の恵みを表すために「黒いマリア」を描いたと中東の話になぞらえて話していた。こう書いていると無味乾燥だが講師の先生が面白おかしく(焦り気味に)話すので何しろ面白かった。

内容は勿論日本の事も含んでいるので私の思う所に近かったのだ。よしなし事のようだが、春夏秋冬季節のあることが、多くの植生を産み、和歌に短歌に季節が読みこまれて行くことになったとしみじみ有難く思うのだ。

藤の花ちららちららと降る夜は恋に踏み切るワインください   多香子                             『猫と暮らせば』より
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