鬼の姿は、そこですうっと空気に溶けた  小説

 村にはひとつ、奇妙な因習があった。女性用媚薬
 とある血筋の女にのみ、受け継がれる絶対の掟。破ること許さず、また忘れること禁ずる歪んだ血の言い伝えである。

 ――その血族に女児生まれしとき、数えて十四年を超えた春より、薄絹を被らせよ。
 他の村からやってきた商売人などは、この口伝を聞いたときに決まって首をかしげる。なぜ女が布を被らなければならぬ。なぜ生まれて十四でなければならぬ。そこになんの意味があるのだと。しかしその問いには、村人の誰もが口を硬く閉ざし、険しい顔で目を逸らすばかりで、答えはもたらされないのだった。
 生まれて十四の娘には、春から薄絹がかぶせられる。その布を外せるのは、決まって屋内のみ。それ以外では雨が降ろうとも、雪の日であっても、娘は屋根の無い場所では薄絹を被っていなくてはならなかった。そして掟はもう一つ。娘の名は、外では決して呼んではならぬ。呼ぶときは布の色をとって、「薄紅の君」と呼ばなければならないと、厳しく決められていた。無論、例外は許さず、過去よりその掟を破ったものは一人としていない。薄紅の君を輩出する一族が豊穣を呼び、雨をもたらす力を持つこともまた、その因習を強く根付かせ、村人の口を堅くした原因の一つであった。
 そんな掟と血に守られし女が一人、今年の春で十四を数えた。
 皆、しきたりにのっとり、娘を「薄紅の君」と呼び、それは家族であっても例に漏れず。娘の名は一時抹殺され、略称であっても「薄紅」とまでのみ許される。信心深い血族たちは、決まって娘を薄紅さま、と呼んだ。若く美しい豊穣の巫女。村の宝。薄紅の君は一族の誇りでもあった。
 娘は日々畑を手伝い、飯を炊き、しかし頭からは決して布を外さぬ。風の強い日は一歩も外へ出ないことも、村の取り決めの一つであった。娘の母も、母の母も、在りし日は「薄紅の君」であったのだから理解も早かった。薄絹を被るのは十四から十七までの三年間。それまで娘は夫こそ持てぬものの、薄紅の君として慎ましく暮らしていれさえすればよかったのだ。

 しかし薄紅の君の期間を終え、子供を産み育てた女はなぜか世間を疎むと、当代の薄紅の君は母より聞き及んでいた。事実、彼女の祖母は村より離れた山で一人慎ましやかな生活を送っている。たった一人で山の家に住まう祖母は、薄紅の君にとって不思議でならないことの一つだった。
 毎日毎日、しきたりであっても布を被らなければならぬ日々に、娘は退屈さを感じていた。風が吹けば外出を禁じられ、ほどよく晴れても五穀豊穣を願う歌を謡わされるのだ。村の土は豊かであったし、雨は適度に降るよい気候に恵まれていた。娘の歌がどれほどの益をもたらしているのかはわからないが、これは気休めに過ぎないだろう、と薄紅の君の胸中はいつでも複雑なままだ。心休まるのは、やはり、家の中にいるときだった。家の中では被りっぱなしの布を脱げる。ようやく視界をさえぎる薄紅の布から抜け出たため、開放的になっていた娘は、ある日ふと母に問いかけた。
「なぜお祖母さまは、山より降りてこられないのでしょう」
「それはきっと、お足が悪いからよ。山道は険しいから、歩くのも一苦労だもの」
 娘とよく似た面立ちの母が、柔らかな笑顔でそう答える。おそらくは彼女が薄紅の君であった頃も、今の娘と同じような顔をしていたのだろう。この一族は、女に色濃く血が受け継がれていた。男がどのような血をしていようとも、決して左右されず、女は母と瓜二つの顔立ちで生まれてくるのだ。豊穣を呼ぶ薄紅さま、と村では崇められているのも、こうした血筋に奇跡を見たからだ。
 しかし、母の回答をもらっても娘は満足できない。むすっと口を曲げてから、もう一度よく似た母を見上げた。
「なぜ、この家でお暮らしにならないのでしょうか」
「それはきっと、山でしか見えないものを見るためでしょう」
 母の答えはいつも抽象的で、要領を得ない。ふわふわと、夢を見ているように儚い表情をうかべることも多いので、娘は真実を得ることを諦め、やや投げやりになった顔で一言呟いた。
「その、山でしか見られぬものとは、いかなるものでしょうか」
「それはきっと、薄紅がおばあさんになったら、わかると思うわ」
 母は散る間際の花のように、淡く淡く微笑んだ。自分と瓜二つの顔を眺めながら、娘はなおも問い続ける。
「なぜお祖母さまは、山でしか見れぬものを、そこまで見たいと望んだのでしょうか」
「それはきっと、薄紅の君であったからでしょう。……我ら一族の業の深さを、思い知ったせいでしょう」
 微笑んだ母はそういってから、どこか遠い目をして、切なげに目を伏せた。

 山に住む祖母へ荷物を届けるように、と父から言いつけられたのは、それから幾日か経ったころだった。
 普段であれば、血族の誰かか、手の空いた村人が山へ登るはずだ。しかし、その日はちょうど村に都から羽休めにきた雅人が訪れていたので、村は猫の手も借りたいほどの大騒ぎとなっていた。しかし、いくら都より参られたやんごとなきお方といえど、村の最たる秘め事である「薄紅の君」を、早々目に触れさせることはできない。家に留めていても、何かのはずみで薄紅の君が彼らの目にとどまることがあるやもしれぬ、と村人たちが一策講じたのだった。そうして、村の至宝たる薄紅の君は一人、山で一人暮らす祖母のところへ使いに出されたのだった。
 出立の際には、静かな顔をした母が手を握り、刻み付けるように忠告を娘にささげる。その横では、父がわずかに苦いものを浮かべながら、それでも娘を見送ろうと立っていた。
「いいわね、薄紅。山は最早、人の領域ではありません。お祖母さまのところへ行き着くまで、そうそう気を抜くことのないように」
「はい、お母さま」
 その大げさな様に驚きはしたものの、娘ははきはきと答えた。しかし、母の表情の曇りは晴れぬ。
「山には、……山には、人ならざる者も住まうと聞きます。彼の言葉に、耳を傾けてはだめ。決して、答えを与えてはなりません。いいですね」
「そんなに心配なさらないで。それでは、行ってまいります」
 薄紅の君が笑うと、母はどこか痛みを堪えるような、闇をおそれる子供のような目をして、娘を見送った。


 薄紅の君は、山道を往く。
 ひらり、はらりと、薄絹の衣を風に遊ばせながら、祖母のために切り開かれた道を真っ直ぐに。迷うべくも無いほどに、祖母の家への道は単純だ。これより他の道はなく、迷いそうだったり崩れそうな場所には、村人が縄を張っている。危険はすべて遠ざけられている。だからこそ、宝である巫女は一人の山道を許されたのだ。
 祖母の好物の、母が作ったおはぎを背負い、薄紅の娘はただの娘として接することのできる祖母との再開に胸を躍らせた。さて、家に着いたら、まず何から話し合おうか。彼女が最後に祖母と会ったのは、薄紅の君になる前の十を数えた年の夏。それ以降は祖母が山に登ってしまったから、会うことは難しくなっていた。
 道が少し急な斜面に差し掛かり、娘は衣の中の髪を耳にかけ小さくため息をついた。こうして体を動かすのは、村で祈りの歌をうたうよりも楽しいものだ。我知らず、笑みが唇の端に上った。そのとき、さっと目の前に影が落ちた。

「薄紅の君」

 若く、みずみずしい声が娘を呼んだ。はっと顔を上げると、いつの間にか、上品な藍色の着物をきた青年が山道の斜面から娘を覗き込んでいた。目鼻立ちが整い、肌は日の光に滑らかに光る、見るからに美しい男だった。細かな刺繍が施された着物をさらりと着こなし、黒い髪はどこか青みがかって見える。しかしその頭には、二本の真っ白な角が確かな存在を表すように悠然と生えていた。
 ――鬼。
 娘は体をこわばらせ、母の言葉を思い返す。山には、人ならざる者も住まうのだ。悲鳴は出なかった。いや、出せなかったというのが正しいか。娘は恐怖から、指先すら動かせなかったのだ。
「薄紅の君」
 とび色の瞳が娘を映す。
 なぜその名を知っているのか。疑問はうかんだが、なにしろ声が出せぬ。ただ、目の前の化生を凝視することしかできなかった。
「どこへ行くのですか? それとも、誰かを探しているのですか」
 鬼はどこか楽しげともとれる声色で、娘に話しかけた。そして、ぱっと空を仰ぐ。
「今日は雨がふらないから、雨乞いでもするのですか」
「……い、いいえ」
 震える声で、娘が答える。無理に引き出したせいでかすれてしまったが、娘が反応を返したことに鬼は喜んだようだった。
「では、どうして山に」
 答えを与えてはならぬ。
 母の忠告が頭をよぎり、娘は泣き出しそうになった。どうすればいい。巫女の力など、この場では何の役にも立つまい。豊穣や雨を呼び込めても、鬼を退けることはできはしない。俯き、ただ時が過ぎるのを待つことしかできなかった。
「……答えては、くださらないのですね」
 娘の対応に鬼は傷ついたようだった。意気消沈した様子で肩を落とすと、泣き出しそうな顔で唇を噛む。ちらと視線を上げた娘がその表情を見ると、鬼は隠すように袖を顔の前まで上げた。
「あの」
「いいえ、わかっております」
 いぶかしんだ娘が声をあげたが、鬼は必死に頭を振ってさえぎった。
「あの日以来、あなたが私に答えを与えてくれたことがありましょうか」
 袖がおろされ、とび色の瞳がまた現れたときには、もうそこに涙の粒は見えなくなっていた。代わりに、深い悲しみの色だけがうかんでいる。
「けれど、構いません。それでもいいのです。誰かに会いに行くのならば、その茂みの向こうに花が咲いております。この山にしか咲かぬ、薄紅色の花でございます。それを摘んで贈れば、きっと喜ばれましょう」
 鬼が指差した先には、草木が揺れている。どうしたものかと娘が戸惑っていると、鬼はわずかに微笑んだ。
「薄紅の君、あなたの行く道に災いのないことを」
 鬼の姿は、そこですうっと空気に溶けた。どこまでも優しげな微笑と共に。
中絶薬
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