2011/6/16 | 投稿者: k

先週は深夜まで仕事することが多く、激務だったので、昨日は休ませてもらったッス。
といっても、嫁が家事をする間に娘の面倒を見るのは、基本なんだけどね(´ー`)y-~~

嫁と一緒にいるときは落ち着いている娘だが、おもちゃを使って遊んだりしてわたしと一緒だと動きが活発である。

こちらは休日なので落ち着いて読書でもしたいのに、娘が身体に登ってくる(´・ω・)
そればかりか、向こうにあるものに興味があるのか、わたしの身体で掴まり立ちをする。
まだへっぴり腰なので正式な掴まり立ちではなかろうが、足の力は相当ついてきた。

ハイハイができるようになると「今度はお座りだね」と実家で母が言っていたものだが、
それは本当だった。前は全然できなかったお座りを、自分でするようになった(゚∀゚`)

その姿があまりにも可愛いのでケータイのカメラを向けたが、今度はケータイの方にも
興味を示してしまい、せっかくのお座りが崩れてしまったので撮影を断念した(´・д・`)

娘をあやしている間に買い物に行って来た嫁を待ち、買ってもらったアイスを食べる。
まだ日中は暑いので、こうして少しでも身体の内部から冷やそうと頑張っているわけだ。

確かにアイスを食べると、あんなに暑かったのにいくらかしのげるようになる(´▽`)
身体からの汗が止まるということは、体温が正常に戻ったということなのか…?
ただ単に、アイスクリームというものが好きだから、買ってでも食べたいんだけどね。

みんなはアイスクリームというと、どんなものがお好きだろう?前にも聞いたっけ?

ただし特定のものは、食べた後どういうわけか喉が渇く。そこで冷たいお茶も飲む。
するとお腹が痛くなる。今年はまだそういうのはないが、昨年はその繰り返しだった。
傾向としては、高価なクリームタイプのアイスで、そういうことが起こった気がする。

そういうわけで今年は高価なものは買わず、100円程度のシャーベットタイプにしている。
おかげで財布もお腹も安心である。かき氷タイプはどうも甘すぎるので好きになれない。

こんなことをしていられるのも、涼しくなるまでだろうな…と思うんだけどね( ´∀`)
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2011/5/26 | 投稿者: kt

「リットン調査団」といえば、高校卒業間近の日本史の授業で、学んだような気がする。
20世紀の歴史は覚えることが多すぎて参ったが、これはどういうわけか覚えている…。

1931(昭和6)年9月18日に満州の奉天(現在の瀋陽)付近で起きた柳条湖事件では、
その後の事件処理と称して、日本軍の出先機関、関東軍が満州をほぼ制圧してしまった。

そこで関東軍は中央から独走し、傀儡政権である「満州国」の成立に向けて工作をする。
中央部は自制を求めたが、人事異動で首脳部が入れ替わると、一転して承認した(;・∀・)
満州の制圧に喝采する勢力が、良識派を一掃してしまったのだ。これで時代は大きく動く。

1932年3月、清朝最後の皇帝だった愛新覚羅溥儀を招聘して執政とし、日本の傀儡政権・
満州国が成立した。犬養内閣は満州国を、中華民国の支配から脱した独立国であるとし、
この年の9月には軍事権を日本の関東軍が受け持つという、日満議定書が締結された。

一方、世界は満州事変とそれに続く満州国の成立を、驚きと脅威をもって眺めていた。

中華民国は満州事変と関東軍の満州制圧に関し、平和の回復を名目に国際連盟に提訴した。
日本は常任理事国の一員だったが、国際連盟においても満州の現状を知ってもらうため、
第三国の調査団による現地調査を提案した。国際連盟はさっそく、調査団の人選にかかる。

そこで選ばれたのは、白人であり、ひとかどの見識を持つとされた、以下の5名だった。

・リットン伯爵ヴィクター・ブルワー=リットン(イギリス)元英領インド総督、56歳
・アンリ・クローデル陸軍中将(フランス)フランス植民地軍総監、62歳
・アルドロバンディ伯爵(イタリア)外交官、56歳
・ハインリヒ・シュネー博士(ドイツ)国会議員・元ドイツ領東アフリカ総督、61歳
・フランク・ロス・マッコイ陸軍少将(アメリカ)59歳

そこに日本と中国から外交官1名ずつが紛争当事国のオブザーバーとして参加しており、
総勢7名の調査団が現地入りして、両国の紛争関係地をめぐり、報告書を提出することに。

調査団はすぐ現地には向かわず、まず係争関係国の日本と中華民国を交互に訪問した。
日本では命令権者の荒木陸軍大臣と会見し、中国では抗日派の蒋介石と張学良と面会し、
さらに親日派の汪兆銘、そして満州国では執政の溥儀とも会見して話を聞いた(´ー`)

1932年8月に現地視察を終えた調査団一行は、北京に戻って報告書の作成にかかった。
これまでの歴史上類例のない問題だけに、調査団の苦労は並大抵のものではなかった。

そして1932年10月2日、調査団は国際連盟に調査報告書を上程し、直ちに公表された。
正式書名は「国際連盟日支紛争調査委員会報告書」(「ReportoftheCommissionof
EnquiryintotheSino-Japanese.」)という。序説と10箇条から成っていた(*ゝω・)b

前史として清国の没落と中華民国の成立、北方からの共産主義の浸透と共産党の跋扈、
そして中国人が満州を辺境と考えていたこと、満州国の成立に対する所見などを述べる。

さらに1931年9月18日における、日中両軍の衝突とその推移について述べているが、
この時点では日本軍の行動は正当防衛を逸脱しているが、自衛のためであったと結論し、
上海周辺における日本軍の行動とその撤退について簡潔に述べるにとどめている(´・ω・)

その上で満州国は、現地住民の支持によったものではなく完全な日本の傀儡政権であり、
成立要因のひとつとして、不買運動やボイコットなど中国における経済戦術を挙げる。
その経済戦術は国際法上で不法行為であり、それが両国の関係悪化に拍車をかけている。

そしてヨーロッパやアメリカの意見として満州国や中華民国における門戸開放を求め、
かつてのウィーン会議のような、現政権の解消と原状回復を示唆することになっている。

そこで通称「リットン報告書」の結論は、だいたい以下の3項目にまとめられると思う。

1.満州事変は正当防衛ではなく完全な軍事行動であり、自衛的行為とは見なされない。
2.満州国は日本の傀儡政権であり、その存在を国際連盟としては認められない。
3.中国の不買運動や抗日運動は問題を深刻化させており、融和が絶対に必要である。

この結果を、日中両国は内政干渉だとしながらも受け入れたが、日本は原状回復など
不可能であるとし、中国としては頑迷に日本の権益を否定するのみで、国際連盟での
議論は平行線のままだった。一方、その他の国では一概に好意的に受け止められた。

報告書では柳条湖事件の後で日本が獲得した権益を認め、その上で満州国などは解消し、
原状へと戻るよう示唆する、「名を捨て実を取る」ことを求めていたが、日本としては
苦労して築き上げた満州国を解消することなど、国内世論の上からもできなかった。

そして1933年12月、満州国の否認をめぐる国際連盟総会で、賛成42、反対1(日本)、
棄権1(シャム)という結果になり、首席全権の松岡洋右は立って議場をあとにした。

この後、日本は国際連盟を正式に脱退。日本の帝国主義は国際的な孤立を深めた(´-ω-`)

一方、満州国は国際連盟で否認されたものの、枢軸国のドイツやイタリア、ソ連との
敵対を続けるフィンランド、日本の同盟国タイ、ヴァティカン、スイス、デンマーク
などの中立国が承認し、1945年の解消までに20数か国が承認していたという(´▽`)
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2011/4/29 | 投稿者: まもろ

鉄道というのはレールを敷設し、それに沿って車両を走らせる技術と方式を指した用語だ。
機関車というものが現れる以前にも、馬が引く馬車をレールに乗せる、馬車鉄道があった。

世界で初めて商用の鉄道輸送が始まったのはイギリスで、1825年のことである(・ω・;)
ストックトンとダーリントンの40キロ程度を結ぶ鉄道が敷設され、蒸気機関の技師だった
スティーブンソンによって開発された機関車「ロコモーション1号」が最初に走った。

その後は鉄道の敷設が欧米で相次ぎ、1832年にフランスのパリ〜ルーアンで運行開始、
1830年にアメリカでボルティモアとオハイオ州間で運行開始、鉄道会社も設立された。
1835年はドイツで運行が始まり、1840年代にはもうヨーロッパ中に敷設が始まった。

一方の日本では、鉄道というもの自体を知ったのが1840年代。太平洋で漁業中に漂流し、
アメリカ船に助けられたジョン万次郎が、アメリカ本土で初めて鉄道に乗せられた。
そしてそのジョン万次郎こそは、日本人の中で最初に鉄道に乗った人物なのである(´ー`)

幕末で日本が開国すると、大挙して押し寄せる外国人の中に、鉄道を日本にも持ち込もうと
いう動きが盛り上がる。でもそれは欧米の技術力を日本人に見せつけるためでもあった。

欧米の影響を受け、日本人が独自に鉄道敷設へと動き出すのは、明治維新後のことである。

幕末の時分にはイギリスなどから鉄道敷設の申請が数多くなされ、実際に許可にまで至る
事例もあったが、実現していなかった。明治政府はそれをいったん白紙に戻させた上で
日本人が自分の手で敷設するよう動き出したのだ。それには大きな理由があった(´・ω・`)

当時のアジアでは、日本とタイ王国を除いてほとんどの地域で欧米の植民地化が進んだ。
それを回避するには富国強兵しかない。そのためのインフラとして鉄道が必要なのだ。
ただし欧米の手で敷設されては、インドのようにさらに植民地化が進んでしまいかねない。

最初の案では東京〜京都〜大阪・神戸の間、さらに日本海側の敦賀から米原へと通じる
陸運・海運をひっくるめた路線が考えられたが、版籍奉還による予算不足でご破算に。

そうしているうちに政府内にも、鉄道などより軍隊の方に金をかけるべきだという論が
巻き起こるようになり、一応のモデルケースとして、東京〜横浜間の敷設が計画された。

しかし日本人だけの力では到底無理なので、技術・資本の提携先にイギリスを選定した。
アメリカなどからも強烈な売り込みがあったが、何といっても鉄道の母国でもあるし、
駐日公使パークスによる具体的な提言もあったため、イギリスに決めたという経緯がある。

そこでイギリスから鉄道技師のエドモンド・モレルを技師長として招聘し、日本の側では
長州藩を脱藩し、イギリスに密航して鉄道技術を学んだ井上勝を鉄道頭に任命した(´▽`)

1870(明治3)年に測量が開始され、同年中に着工されたが、いろいろと問題も出た。

当初は欧米並みに鉄製の枕木を導入しようとしたが、技師長のモレルは、それでは予算が
オーバーしてしまうし、今後日本人だけで敷設する場合に枕木を輸入するのはどうかと
いって反対し、国内でまかなえる木材を枕木にするよう提案したのだという( ´_ゝ`)

さらに現在でも欧米で標準になっている標準軌(広軌、1435ミリ)ではなく、台車を
コンパクト化できる狭軌(1067ミリ)にするよう提言があり、日本側は承諾した。
しかしそれがケチのつき始めで、今でも日本では標準軌への改変が達成できていない。

実際の工事では、鉄道無用論をぶち上げた薩摩藩邸がある芝、品川といった区間では、
わざと路線を避け、海上に築堤を作り、その上を走らせるという念の入れようだった。

また多摩川を渡る六郷橋は、イギリスから鉄橋と石材を輸入して架ける計画だったが、
予算削減のために木橋になった。でも結局、強度問題で鉄橋に架け直されることになり、
余計にお金がかかる結果になってしまった。これもまた笑えない笑い話のひとつだ。

そんなわけで1872年の6月、新橋駅(現在の汐留駅)と横浜駅(現在の桜木町駅)の
間で29キロの路線が開通し、推進派の伊藤博文や大隈重信らを乗せて試運転をした。
同日、仮開業として品川〜横浜の間で2往復が運行され、翌日には8往復になった。

そして10月14日、新橋駅で鉄道開業のセレモニーが挙行され、明治天皇らを乗せた
お召し列車が横浜駅まで行き、さらに新橋駅に戻ってきて正式開業となった(*´ー`) -3

現在は「汽車道」という遊歩道になっている築堤を通り、蒸気機関車が到着している。
開業当初の客車は台車だけが金属で、それ以外は日本人職人が作る木製貨車だった。

開業時の全区間運賃は、上等が1円12銭5厘、中等が75銭、下等が37銭5厘だった。
当時の物価では下等の運賃でも、米10キロが買えるほどの高額であった(; ・`ω・´)
上等に至っては、陸軍二等卒の月給が1円27銭8厘だった時代。以下に高いものか…。

さすがに高すぎて利用客が少なく、結局は値下げすることになったが、それ以降も
現在の高速道路と同じく、鉄道はお金のかかる交通手段というイメージだったらしい。

それでも開業翌年(1873年)の運賃収入は42万円、経費の23万円を引いても21万円の
利益が出た。それ以来、「鉄道は儲かる」という考え方が経営者の間で広まっていく。

ちなみに最初の駅員や整備士は元士族ばかりで、接客態度は横柄で不人気だったそうだ。

当初は機関士や運転手はみな欧米人で、日本で最初の運行ダイヤを書き上げたのもまた
外国人だった。彼らはその後もお雇い外国人として、高給で技術協力をすることになる。
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2011/4/25 | 投稿者: 釣り好きパイナップル

今年は日本と朝鮮が国交を持ち始めて2000年になるとのことだが、この両国は昔も今も、
盟友関係になったり緊張関係に陥ったりと、複雑な歴史を歩んできたと思うね(´-ω-`)

19世紀の中ごろからアジアで巻き起こり始めた革命の嵐は、インドの大反乱のように
失敗に終わったものから、日本の明治維新のように、辛うじて成功したものまで様々だ。

その中で日本は明治維新を成し遂げ、これからは西洋列強に植民地化されないようにと、
精一杯強がって生きていかなければならなかった。なぜなら、当時完全な独立を保って
いたのは、日本と東南アジアのタイ王国くらいのもの。それ以外には宗主国がいた。

日本の隣国の朝鮮(当時は李朝、1392〜1897年)は、その向こうの大国清朝の冊封を
受けており、かつて日本は中国と対等になったものの、朝鮮は冊封を受けたままだった。

その中で19世紀早々に始まった、朝鮮王の摂政になった外戚の安東金氏による勢道政治は、
西洋からの文化流入や汚職の払拭といった効果はあったが、安東金氏の専横を招いた。
1863年に高宗が即位すると、その父の大院君が安東金氏を追放して摂政に就任した。

大院君は極端な外国人嫌いであり、この際、儒教を基本にして攘夷を断行した(・∀・`;)
それに驚いたフランス軍が江華島を占領し、進軍を始めたが撃退される事件も起こった。

日本では隣国の朝鮮に対し、明治維新と王政復古を経て日本が革命を成就させたという
知らせを持たせた公式の使節を幾度か派遣した。でも、朝鮮政府の反応は冷淡だった。

そこで参議の西郷隆盛は、自分が使節になって大院君に会い、攘夷などによって日本と
国交を断絶することのないよう申し伝えるべきだと主張した。この考えの背景には、
鎖国が強化されようとする朝鮮を武力で押さえ、強制的に開国させようという意図がある。

この意見には板垣退助、後藤象二郎、江藤新平、副島種臣、桐野利秋、大隈重信など、
維新に功があった少壮の若手官僚たちが賛成した。血気に逸る若者が多い傾向にある。

それに対し、大久保利通、岩倉具視、木戸孝允、伊藤博文、黒田清隆といった政府の
重鎮たちは時期尚早だと反対した。ここでアジアを混乱させてもなんの得もないからだ。

当時の日本には、朝鮮だけでなく清国、ロシアを刺激して戦争にでもなった場合には、
国を守れるだけの武力が備わっていない。さらにイギリスやアメリカなどと結ばされた
不平等条約の改正問題、清国やロシアなどとの領土問題など、多くの問題を抱えていた。

そんな中で、岩倉具視を団長とする遣欧使節団がアメリカに向けて出発するが、彼らが
いない間は留守政府となり、重大な改革はしないようにと申し合わせをした(´・ω・`)

ところが使節団に加わった岩倉や大久保など反対派がいない間に、使節賛成派は独自に
閣議を行って派遣を勝手に決めてしまい、その旨を明治天皇に奏上してしまう(・ω・;)
だがこの奏上は、留守政府の取り決めに反するとして明治天皇に拒否されるのだった。

岩倉使節団の帰国後、10月14日から開かれた閣議では、この問題で紛糾した(=ω=*)

その前の議論で賛成派と反対派は同数になっており、多数決もできない状況になった。
西郷は机を叩き、この案が通らないなら自分は参議を辞任し、帰郷すると言い出す。

人望のある西郷が帰郷すると、これに従う不平士族らが反乱でも起こすかもしれない…。
そう考えた太政大臣の三条実美は、とりあえず派遣することで閣議決定してしまう。
これに激昂した大久保や岩倉らも辞表を提出。結局、両派は物別れになってしまった。

あとは明治天皇の裁定を仰ぐ段になったが、太政大臣の三条は聖断を仰ぐことへの
恐れ多さと政治紛糾の責任から過度のストレスを抱え、17日に倒れて意識不明に…。

そこで代理として23日に、右大臣の岩倉が奏上することになったが、岩倉は反対派の
意見を通すため「私見」として西郷の派遣延期を一緒に提案したのだった(*´・ω・*)
結局は岩倉の慎重論が明治天皇の意見に合い、西郷の使節派遣は否決されて終わった。

怒った西郷は即日辞表を提出し、賛成派の板垣、江藤、副島、後藤も翌日になってから
辞表を出した。これは25日に受理されるところとなり、彼らは政治の舞台から去った。

この論争は「征韓論」とも呼ばれ、明治時代初期における政治問題のひとつであるが、
結局日本は数十年後に、武力を背景にした朝鮮の支配に乗り出すことになる(*´・ω・)ノ
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2011/4/18 | 投稿者: 釣り好きパイナップル

さてわたしは最近、会社で食べるおやつにとてもおいしいクッキーを見つけてきた(´▽`)
実を言うと職場内では飲食禁止なんだけど、反対意見が多く、休み時間は黙認状態だ。

コンビニで売られているもので、いわゆる女性向けの「小腹がすいたら」的なもの。
男だから食べちゃいけないということもないので、コンビニに行くたびに買っている。

実際のところ、残業時間に夕食に出ることなど、どれだけあるんだろうか?(´・ω・`)ノ

個人的には食事に出ている30分間だけでも、早く仕事を終わらせて帰りたいのである。
だから夕食は当然省略することになる。しかし人間はお腹がすくと恥ずかしい音を出す。

そこで小腹を満たすためのおやつが必要になるんだけど、飲食禁止ではどうにもならない。
残業時間には休み時間など設定されていないので、堂々とおやつを頬張ることもできない。

仕方なく監視者である上司が帰宅するのを待ち、いなくなったら一斉に食べ始める(´ー`)
今まで抑圧されていただけに激しく、中には菓子パンを食べる猛者までいる始末だ。

わたしは朝にコンビニで買う上述のおやつを食べるんだけど、これがまた贅沢なものでね。

見た目は単なるクッキーなんだが、硬くない。しっとりと歯もろく作られているのだ。
某メーカーの不○家が販売している、「カントリー○アム」よりもさらに柔らかいわけだ。

4個パックで128円と、決して安くない価格。それでも朝に行かないと売り切れてしまう。
今週の月曜日に行った際にはすでに棚になく、売り切れかと思いきや棚の奥に残ってた。

かくいうわたしは子どもの頃から、菓子類でそんなに贅沢な思いをしたことがない(´-ω-`)

母は非常に甘党で、茶だんすの一角にはお菓子が常備されていたが、そのお菓子というのが
スーパーで大量に売られるチョコレートやクッキー、煎餅といった程度のものばかりで、
4個入りで128円などと言い出した途端に「高い!」と反撃されるのがオチであった…。

それが今や、自分の少ない小遣いの中からではあるが、ささやかな贅沢ができている。
子どもの頃に贅沢をしていたら、この程度の贅沢も喜びなど感じなかったかもしれない。

ところでみんなはお茶の時間のおやつというと、どんなものがお好きだろうか?( *´艸`)

会社の勤務中にはお茶の時間などないので、眠くなったり集中力が切れたりなどして、
業務上も非常に非効率である。ここはイギリス並みに、休憩時間を30分にするべきだね。

そして残業時間は休みなく働き、少しでも早く帰る。これも業務効率化の手段かも?
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