羨ましいもの  

 最近観たテレビのバラエティー番組で、「お金持ちの家の子スペシャル!(←うろ覚え)」みたいのをやっていたので、どんなもんかなと思いながら、観てみた。
 すると、広〜いリビングのある豪邸にはトイレが全部で6つあるとか、札束の扱いを親から教わったとか、まぁ豪勢なエピソードてんこ盛りで、それだけでも中々見応えがあったのだが、中でも「お父さんが一部上場企業の社長」というモデルの女の子が、すごかった。
 和田アキ子も「お父さんのこと良く存じている、ジェントルマンよ」となど言っているし、他の出演者も、「あ、あの会社ね」と言った感じで話を聞いていることから、このお嬢さんのお父さんが、かなり力のある人であることが想像できる。合わせて、この娘さんの「お友達」の誕生日会のために、お父さんが数万円のシャンペンを何十本も差し入れてくれるというのだから、ご自身もかなり遊んでいる派手なお父さんなのだろうな、ということもわかる。そんなパパにたっぷり甘やかされて伸び伸びと育った娘っ子は、自分の友達のことも下僕のように振り回し、涼しい顔をしている。なによりこの娘さん、「お父さんが願い事は何でも叶えてくれるから、別にいつか叶えたい夢はない」と言ってのけたのだから、羨ましいとしかいいようが無い。

 「地位とお金があることがそんなに羨ましいか?!心は?教養は?」と思われるかもしれない。確かに、このお金の使い方から見ると、もしかしたらこちらのお父さんは自分一代で大金持ちになったいわゆる「成り上がりタイプ」なのかもしれない。が、ともかく娘がモデルになれるくらいに美人の奥さんをもらっているはずで、そんなダンディでお金のある父親と、(多分)美人の母親の築いた家庭に、すんなりとモデルになれるくらい容姿にまでも恵まれた娘さんが誕生したのである。その娘が、「頑張ってコツコツ勉強するぞっ」とか、「恵まれない者に愛の手を」といった思考回路を持たなくても、仕方がなかろう。美、富、地位がすでにあるのに、どうして今さら教養が必要なのさ?ということだろう。それがいいことかどうかは別として、とにかく、この女の子の周りには、普通の家の子に付き物の「心配の影」が、一切見られない。 そのことが、私にはとても羨ましい。
 
 今、私も結婚して、ごくごく平凡だが安定した生活をさせていただいている。しかし、仮に良人が年収数千万、数億円あったとしても、彼の稼いだお金を自分の好きに使うような生き方が、もう私にはきっと一生できないと思う。子供の頃に芽生えたお金を大切にするという考えが、人生経験と絡み合って心に深く根付いた、という普通の理由のためだと思うが、ともかく、沢山心配して悩むのも一人生、このお金持ちのお嬢さんのように、人がくれるお金や大事な物や優しさを全部すんなり受け入れて、それに飽きたらあっさり次のことに気持ちを移せるような生き方もまた一つの人生ならば、そんな勝手し放題の一生というやつ、是非次回はお願いしたい。さて、そんな風に生まれ変わった私でも、今の旦那さんはまた見つけてくれるだろうか?


 
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楽しくないクリスマス  

 12月といえば、イギリスではクリスマスの挨拶の時期である。
赤や白の封筒に入った大小それぞれのカードに混じって、時には付き合いの深い友人からのプレゼントが届くこともある。ただ、「付き合いが深い」とはいっても、相手は学生時代からの古い友人だったり、「親同士」が仲良しだったために家族ぐるみで付き合っていた方だったりするので、実際にこの方々と会って食事などをするのは数年に一度っきり、あるいは何年も顔をあわせていない、ということもある。 
 ともあれ、そんなやり取りが行われるこの季節が近づくと、私の心は軽く沈みがちである。
 例えば、前年、ある人にカードを送ったのに返事がなかった。さて、今年もカードを送るべきだろうか。あるいは、あの人とは、もう随分心が離れてきてしまったように感じる。一応カードを送ったが、クリスマス直前になっても、まだ返事が来ない。 もう、私とは付き合いたくないのだろうか、それとも、何か他に理由があるのだろうか。。。
 こんな風に、答えの見えない探りを延々自分の心の中で続けることに、私は疲れきってしまう。大喧嘩をして、それっきり縁がプッツリ切れるというのなら、まだ話は早い。しかし、「なんとなく、何かしらの理由で音信不通になりかけている」あるいは「双方のうちのどちらかが、縁を断つことを望み、その方向でことを進めようとしている」といったときのモヤモヤした感じは、言葉にできない暗さを秘めている。
 悲しい気持ちになりかけた私は、周りに居る友人皆が何十年来の友人だという、人付き合いのエキスパートである友達にもこんな悩みがあるのかしらと思い、訊ねてみた。すると、
「そうそう、何とかちゃんからここ2〜3年カードが来なくなったから、電話かけてみたのよ。そしたら、久しぶりだから40分も話しちゃった。しばらく体調が悪かったみたいなの。安心したわ」
と、ケロッとしている。あぁ、この行動力、積極性、楽観性、寛容性、これらが全て私には欠けているだ。それを自覚していながら日々をやり過ごしている一年間のツケが、この時期の重い気持ちとして返ってきているだけなのだ。思い知れ、自分メが。
 来年は、もう少し努力して人と付き合うようにしよう。、、、ということは、今年の初めにも思ったはずだ。そして、アホな私は、またしてもそれの行動を怠った。きっと、来年も同じことが起こるだろう。あるいは無理して頑張りすぎて、「あぁ、やっぱり私にはこんなの向いてないっ」と、自己嫌悪に陥ることが見えている。
 それでは、せめて、周りに居てくれる数少ない友人たちを、もう少し大事にしよう。来年は、感謝の気持ちを、わかりやすく態度や言葉で伝えよう。
広く浅く人と付き合えない人間には、これくらいで神様もお許しくださるのではないでしょうかね。 
 
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現実のイギリス生活  

言い忘れていたが、私はイギリス在住である。そして、ニュースによると、今年のイギリスは近年まれに見る寒さらしい。「ニュースによると」というのは、実は私自身はそれほど強烈な寒さを体感している気がしないからだ。イギリスの家は、全室暖房が入っていてまあそこそこ暖かいし、屋外に出るときには重装備をして出るので、30分も散歩をすれば、軽く汗をかき始めるくらいなので、却って寒さを感じにくいのだと思う。

 とはいえ、雪がポテポテ降るのには、参っている。イギリスという国は、こんな北に位置しておきながら、暖かい海流やら風やらの影響のおかげで、今までそこそこ暖かかく過ごせたせいで、雪への対策が全くできていない。だから、ほんの20センチ程度雪が積もっただけで、オイルショックならぬ、「スノーショーック!!!」が国民を直撃するようになっているのだ。

 タダでさえ当てにならない公共交通機関は「こりゃいい言い訳ができたっ♪」と言わんばかりに崩れまくり、車道には雪がそのまま残って踏み固めらるために車の走行にも支障が出る。すると、それに連鎖して宅配サービスが遅れに遅れ、スーパーの食料が軒並み品切れになる。日々の食料の確保の心配をしなければならないような育ち方をしていない私たちにとって、これは大変な恐怖だ。おまけに、さらに運が悪ければ、家の暖房を司る油やガスが切れる寸前にもかかわらず、配達のトラックが辿り着けず、結果として心身共に厳寒の冬を目の当たりにする羽目にまでなる。恐ろしい。国全体が、東海道新幹線の岐阜〜滋賀間のように、雪に弱い。脆い。儚い、、、。

 何でも、こちらの普通電車が雪に弱いのは、「電車の通電システムが100年前(えっ?)のままだから」だし、あちこちの道路の雪が処理されないのは、「砂や融雪剤を全ての道路に撒く費用が無いので、ご自分の家の前は、ご自分で雪かきしてもらいたい(ん?道路をスコップで雪かきしてたら、危ないよね?)」といった町の都合からであるらしい。はぁ、そうっすか。。。ここは大英帝国、産業革命を起こした先進国ザ〜マスのに?

 と、愚痴を言ってみても、始まらない。 食料は確保できるときに確保して、どうしても交通機関を利用しなければならないのならば、数日前から準備しておくしかない。この国にある、あらゆるものの不便さにはかなり慣れたと思っていたが、このスノーパニックには改めて自分の甘さを痛感させられた。それでも、生き抜くぞ。
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無職で美食  

私の肩書きは、一応フリーの翻訳・通訳士ということになっている。しかし、ここ数ヶ月は、仕事が全く入ってこなくなってしまったため、本当にただの「フリー」な人でしかない。
 とはいえ、不幸中の幸いと言うか、私の年間ピーナッツ三つ分程度のお給料が無くなっても困るのは自分一人なので、こんなときには大人しく本業の主婦業に専念するに限るのだろう。
 締め切りに迫られる焦燥感が無く、気持ちに余裕があるというのは、面倒なお料理を始める上で、大変重要な基盤である。 こんなときでなければ、じっくりと腰を据えて作る料理に手を出す気分にはなれない。やるぞ、やってやる。
いわゆる主菜ではない、無くてもいいけど、あるとウレシイ♪というものを、今こそ作るのだ。
 そこで私は、餃子、シュウマイ、ジンジャービスケット、そしてふりかけなどを順番に、地味〜に作り始めた。練り上がりの小麦粉の柔らかな感触、ゴールデンシロップの照りのある透明感、削りたての鰹節の香しさにうっとりしながら、一つ一つの作業に意識を集中する。餃子などは、ほんのチョビッとのお肉で25個くらい出来てしまうので、「これを町で売ったら、儲かるだろうな、、、」などというヨコシマな気持ちが起こることもあったが、それはご愛嬌の寄り道である。
 数日間にわたって、それぞれ数時間のときを経て完成した作品は、器量はイマイチでも、珠玉の一品である。餃子とシュウマイの具の違いを知った喜び、ジンジャービスケットのスパイスの加減が自らの好みをぴったり重なり合った満足感、もう錦松梅が無くなったからといって、実家の母に泣き付いて送ってもらう必要の無い開放感、そんなものが一緒くたになって、無職となった私の荒んだ心を優しく満たす。
 芸術作品が見事仕上がったとなれば、当然次に欲しいのは、賞賛の言葉だ。シュウマイを作った私の努力を称え、それに合わせて市販のものとは違うジューシーな美味しさ、手作りの物の贅沢さを、あらゆる表現で私に浴びせかけて欲しい。さぁ、皆の衆、召し上がれ!
 私はそれらの宝石たちを家族や友人に振舞う。そして、自分の求めていた感嘆の言葉を、己の生み出した宝玉と共に、味わう。お金では買えない達成感が、ここにはある。ただ、料理本やインターネットのレシピそのままに、できて当たり前のものを作っただけなのに、自分が世にも稀で、素晴らしく有能な妻のように
思えてくる。あぁ、この感動を、世の中の人皆に伝えたい、、、!

 しかし、そんな生活も数週間で輝きを失い、私の心はまた、仕事を求めて彷徨い始めるのだった。たとえ時給500円でも、日給3000円であっても、自分がお金を稼げる人間であるということは、自信を持ち続ける上で、とても大切らしい。いつも出来立ての美味しいものを作って、家族を待ち受ける主婦、それは、継続するにはなかなかの努力を要する仕事なのだった。
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teacup.ブログ START!  

は〜、ついにブログを始めることにしました。全く持って「今さらジロー」感が漂うのは否めませんが、何しろ文章を書きたいという欲求毎日湧き上がって来て、頭に浮かんだ文章や思いを記録せずに忘れてしまうのはちょっと惜しい、と考えて、ようやくここに至った、、、というわけです。
日々のガス抜きになればいいかな、といった軽い気持ちで、スタートします!
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