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つまり之によると、哲学とは、吾々が現に生活しているこの実際界とは別な、何か高遠な或いは迂濶な、高貴な或いは滑稽な世界に関する科学又は空想だ、というわけである。こうした「哲学」(広義に於ける形而上学)がどれ程組織的に組み立てられても、実際問題を解決する実行的功利性が云わば積極的に乏しい処を見ると、決して科学的だとは云えない。――哲学は単に他の自然科学や社会科学其の他と領域を隣するという意味での特殊科学であるよりも、一切の科学乃至知識の基本的な要約諸点を取り上げるものでなくてはならないのであって、この要約諸点をそれとして取り上げることから、哲学でなければ見られない思考方法や公式の運用が生じる点で、初めて一種の特殊科学となる、と考えるべきだろう。一切の科学のこの要点的要約は正当に論理乃至論理学と呼ばれているもので(尤も学校で教える論理学のことではない)、ここで初めて人類の思考方法の歴史とその現段階とが問題とされるのである。


 今哲学のこの規定を、単に諸科学に就いての場合に限定せず、文化全般に、芸術・道徳・又宗教に就いてまで及ぼせば、こうした諸文化の要点的要約が、哲学の科学的な最も広範な最も統一的な観念になるだろう。そういうものは或る理由から矢張り論理と呼ばれていいものだが、もっと手っ取り早く云えば思想というものに他ならないので、芸術・科学・道徳・意識・(宗教的信念さえ)・等々を貫く一貫した思想が、この哲学の専門的領域をなす。――思想というと、一方では形のないただの観念や観念傾向やを世間では考えたがるかも知れないし、又他方では一定の出来上った(社会思想というように)理論的な輪郭を世間では考えたがるのだが、併し思想とは、もっと率直に考えて見れば判るように、一定の傾向を持った観念が、凡ゆる経験を呑吐しながら、それ自身の傾向を伸ばし又矯めして、みずから補強発育すること、そのことを意味している。進歩する動向を必然的に持っていないような、ただの持ち合わせの観念は、決して思想と呼ばれるものではない。思想を論理と呼びたいのはこの理由からだ。そういう意味に於て、哲学は思想の科学だとも云えるだろう。
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(無題)  

従ってプロレタリア科学とかブルジョア科学とかいう言葉は本来無意味なのだ、と往々云われている。だが自然科学に於てもテーマの選択一つにも、理論の組み立て一つにも、科学的成果の解釈一つにも、又理論の発達条件にも、凡てイデオロギーが口を利いているのである。自然科学の歴史的発達の促進阻害に就いてだけは階級性が見出されるが、自然科学の理論内容(即ち論理)には階級性を見出し得ないという考えは、自然科学がその理論内容と独立に発達し得ると考えるナンセンスに帰着する。自然科学の歴史的発達にもし階級性があるなら、この発達を必然ならしめた自然科学の内部的論理機構そのものに階級性がなくてはならぬ。もしそうでなければ、自然科学は全く偶然的に外部的な原因によって歴史的変化を遂げるものだということにならざるを得ないからである。
 尤も自然科学は社会科学や哲学に較べて、その階級性乃至党派性が或る意味に於て原則的に稀薄であることは認めなくてはならぬ。それは自然そのものと之を科学的に認識する人間活動そのものとの間に比較的間隙があるからに過ぎない。だが自然科学と云っても、之を社会の技術的基礎や社会機構全体、又他領域の文化乃至イデオロギーから切り離して取り扱うことは許されなかった。この連関は自然科学にとって偶然な外面的なものなぞでは決してない。でこの連関に於て自然科学の階級性を取り上げて見るなら、この階級性の積極的な意義はハッキリと浮き出て来る。
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