| 投稿者: 星を狩るもの

 一、序論

 二、不思議について
     不思議の解明と科学の役割
     感覚能力の実態把握の必要

 三、ものの見方、考え方
     見るということ
     考えるということ

 四、科学の限界
     科学における客観的実用性
     対象としての世界と見る者の住む世界

 五、私とは何か?
     私のことは私にはわからない
     個体の生死と不変の「私」

 六、次元への導入
     見る者の立場による対象の変化    
     次元的考察における観察者の立場の重要性
     次元の基礎概念と「我」の導入

 七、時間について
     時間と把え方
     次元と認識の関係の基礎概念
     流れぬ時間の同時性と永遠性
     経験としての時間の本質としての時間
     必然性と可能性

 八、見える世界、見えない世界
     見える條件と見えない條件
     対する世界と包む世界

 九、物・「我」・心
     物とは
     「我」の自覚と世界
     「我」と心

 十、心(こころ)について
     心の機構
     包む者としての「場」
     心はいのちのはたらきかけ

十一、記憶と認識
     記憶の機構
     認識について

十二、心・霊・神の次元
     霊的現象の実在性
     「我」とその本質
     四次元を超える世界の在り方
     「我」の拡大
     究極者

十三、存在について
     存在の不完全性
     認識の機構
     創造主について
     認識の明確さについて

十四、「空」と「無」
     「空」について
     「無」について

十五、夢の機構
     こころの解明
     睡眠の生理
     心は肉体組織の中には存在しない
     狂気の生理
     幻視の生理

十六、創造と進化
     創るということ
     進化について

十七、生と死
     生死は「いのち」の生きる姿
     いのちの永続性
     肉体と「我」の関係
     業について
     輪廻と転生

十八、「いのち」について
     究極としての実在
     あらゆるものが「いのち」あるもの
     垂直に係わり合う対
     生命の根元
     マーヤーのはたらき
     いのちの本質としての愛

十九、結論

あとがき     



管理者より

2011/6/17 | 投稿者: 星を狩るもの

次元と認識、という本から
少し書き出してみました。
迂闊者の手打ち入力ですので
誤字脱字、文章の書き間違いがあります。

いろいろ考えることはありました。
本の一部を書き出してみても
内容が真に伝わるわけではありません。
しかし、全文を読んだとしても
読んだ人それぞれの受け取り方なのか、と。
私自身が何度か読むうちに、
他の誰かにもこの本の何かが伝われば、と思いました。

本の複製のつもりはないので、
意味なく写真を添えた文章もあります。
(故意に本の文章を変えてはいません)
文章を読んでいて、おかしいなと思ったら
読まれた方がそれぞれ直していただいてもいいし、
ご指摘がいただけるなら、気が向けば図書館に出向き、
間違いを確認し、修正するかもしれません。

この本が復刊されますように。



2011/6/17 | 投稿者: 星を狩るもの

 「天橋立股のぞき」ということがある。ふだん見慣れた景色でも、頭を逆にして観点をかえて眺めてみると、股一段と美しく見えるものである。
 小さいときから詮索好きで、人生の問題など何か疑問が起こると、自分なりに色々と理屈をつけて、納得できる回答を考え出さないと我慢ができない性分で、そのような場合、世間なみの考え方とは逆を行って、案外満足できる結論を得たことがしばしばある。
 本書もその例で、学者ではない一市井人が、永い人生のうちで経験したこれら自分なりのものの考え方を、盲蛇におじずで取り纏めたものであるから、学問的に見当外れのこともあるであろうし、また説明をできるだけ簡略化したため、一過的にご覧いただいたのでは、充分真意をお伝えできないところも多々あると思うが、世にはこんな妙な考え方もあるものかなとご笑覧いただければ幸いです。
 終りに、これまで著書、講演、会合等を通じてご指導いただいた多数の有縁の方々のご厚恩に対して、心から感謝を捧げます。
   昭和五十四年四月六日
              小 菅 正 三


2011/6/17 | 投稿者: 星を狩るもの

 われわれはすでに述べ来たったことによって、「我」の本性は「いのち」そのものであることを知った。すなわち、われわれは「いのち」の中にいていのちを眺めている者であり、このすべてである「いのち」から一歩も外にでることを許されない存在なのである。だからわれわれ・・・・・正しくは「我」というべきである・・・・・に眺められている対象-----世界も「いのち」なら感官をとおしてそれを眺めている本尊-----「我」も「いのち」なのである。つまり「我」はこの「いのち」の中のどこに在ろうとも「いのち」を二つの仕方で受け取ることとなる。すなわち感官を通して眺める・・・・・従って自己(我)の立場より次元的に低い世界よりの働きかけを物として眺めると同時に自己より高い次元よりの働きかけを心として受け取るものである。
 この場合働きかけるものは、何れも一つの「いのち」であり、それを二つの仕方で「我」が受け取るのである。それは「いのち」の中には「我」が在ることから当然のことである。
 そこで考えられることは、認識というものは、これらの働きかけのいずれか一方のみでは成り立ち得ないということを、すなわち物を見る場合、感官を通しての知覚だけでは認識とはなり得ず、これを意味あるものとして受け取るためには、心の構えが必要だということになる。心の構えとは前にも触れたが、高い次元に保在されている経験の記憶、もしくは先見的に保有する「いのち」の想念による期待(パターンをも含めて)が、知覚を呼応して同時に準備されているということである。
 すなわち、低い次元からの物としての働きかけと、高い次元からの心としての「いのち」の働きかけと、両々相俟って、ここに認識・判断・意志等が可能となるのである。
 それはたかも、隻手のみでは現実には音をなさないようなもので、ここに認識機構の探求においては、感官を通しての知覚に対応して高い次元から働きかける心の役割の重要性について、大いに検討を要すると思う。
 しかしこのような考え方は、次元的に「いのち」のはたらきを考えることによって、はじめて気付きうるもので一般常識的には見えるものすなわち存在のあり方は、物からの働きかけ以外には関心の及ばぬのは当然である。
 そこに常識としての・・・・・そして同時に科学的と考えられているものの見方と、これまで述べてきた次元的見方との相違がある。
 前者にあっては、この世界を無限に拡がる空間と考え、われわれはその中に肉体をもって生活し、その肉体の奥底(特に頭脳)に心があって、その肉体を支配しており、そしておそらく生命の本源も、その中に秘められたはたらきであろうと信ぜられている。この場合「我」はこの肉体を離れては存在せず、従って肉体の死は、同時に心の生命の消滅であり、ただ空間の(もの)のみが永遠に存在を続けるものと考えられている。このような宇宙観は、世界存在を、われわれの感覚の世界を超えた直感の範囲まで考えを推しすすめなければならない。
 そこでそれを論理的に、より高い世界にまで推し進めて把握しようとしたのが、これまで述べてきた次元的宇宙観の目指すところのものである。これを前者・・・・・仮に自然的宇宙観と呼ぶ・・・・・と比較することは、もともと観察の仕方を異にするものであるから当を得ないが、観念的には両者は対蹠的立場にあるもので、前者においては、一切が空間のうちにもののはたらきとして示されると考えることにより、心もいのちもすべて物である肉体の中に潜んでいる働きであると受け取るに反し、後者においては、すべてのすべてである「いのち」のうちに、あらゆる現象が展開されると考えるものである。
 だからある意味において、前者は唯物的の考え方であり、後者は唯心的ともいうべき考え方である。だから前者においては、肉体を離れた心もいのちも考えられず、また感覚器官を経由しない対象の認識も考えられないということになる。しかし後者においては、低い次元の肉体や世界が消滅しても、それはいわば「いのち」の大海の中に起こされた風波に過ぎず、本質である高い次元の「いのち」そのものには何等係わりはないということになる。そしてこのような考え方を認めることによって、今まで科学的にその説明に行きづまっている数名の問題・・・つまりこの世の不思議か、ともかくも一応納得しうるものになり得たと信ぜられるところに(もちろん筆者の思い上りかも知れないが)、このような次元的ものごとの考察が、まんざら無意義であるとは思われない。
 つまり、不思議というものは、かつても述べたように、そのもの(対象)の本質にひそむ摩訶不思議な働きではなく、われわれの認識の機構に内在する生得の錯覚にもとづくものであるから、われわれの認識の機構が正しく理解できさえすれば、すべて明々白々のものとして受け取られるべきはずのもので、これまで長々と述べ来たった次元と認識の関係の解明は、この目的のために何等かの手掛かりを与えることができるものと信ずる。しかしさればとて、それを以ってこの法界宇宙のあらゆる現象を、明確に把握し得たと考えてはならない。それはわれわれの到達しうる認識能力には限界があるからである。そしてその限界を知るということが、ともなおさず、すべてを知ったということなのである。
 われわれは本書のうちにおいて、六次元を超える世界のあなたに「いのち」を眺め、手を束ねて戻ってきたのであるが、それは西遊記の孫悟空が、世界の果てを極めたつもりが、釈迦如来の掌から一歩も出ることができなかったように、われわれもこの「いのち」の懐から一歩も出ることはできないのである。だから「いのち」とは何ぞやと問われれば、「不知」と答えるより外はないであろう。ただわれわれの知り得ることは、それより低い次元に示された一切の現象を通して、ただ「いのち」のはたらきを知りうるだけで、その本質は永遠に知ることはできないのである。しかしさればとて真理の探究が徒労に了ったと考えてはならない。なぜならば、われわれが「いのち」の中に在る者である限り、「いのち」を経験する立場にあるものであって、眺める立場にはないからである。



2011/6/17 | 投稿者: 星を狩るもの

 神の本質が愛であることは、あらゆる宗教の教えるところである。しかしその愛は何かについては、自明のこととして明らかにはされていない。
 人は妻を愛し、国を愛し、物を愛するという。このように愛と呼ばれる行為と対象は様々であるが、その行為者の自覚の有無に拘わりなくその行動について総括的に考えれば、愛とは「自己を抛って対象と一つになろうとするこころのはたらき」といえよう。ここに対象と一つになるとは自我-----「我」の忘却である。いのちは自我を放つことによって、必然的に一次元高い「我」に目覚めることは前にも述べたところである(第十五章参照)。ところがここに外見的には愛とは全く対蹠的と考えられているものに欲(または執着)がある。欲とは「己に非ざるものを自己に取り入れようとするこころのはたらき」で愛とは反対に執着のこころである。それは常に自我の自覚の上に立つから「我」を低い次元に繋ぎ止める結果となる。然しこのように両者は一見相反する行為と考えられているが、実はいずれも一つ「いのち」のはたらきで、ただその発現する次元を異にするだけで愛とは高い次元に示された欲であり、欲とは低い次元に示された愛である。

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 高い次元にあっては「我」とそれに対する世界は時間・空間を超えてその拡がりを増大するから、必然的にこころも低い立場に在る者から見れば、広大な洞察の上に立つ英知として示されることになるが、低い次元にあっては、「我」はその拡がりが縮小するから視野も狭い範囲に集中されることとなり、そのこころのはたらきも高い立場からは欲または執着の姿として受け取られることとなる。
 愛は与えるこころであり、欲は受け取るこころである。およそ世に在るすべてのものは、有情(生物)と非情(いわゆる無生物)とを問わず、この二つのはたらきの授受の継続のうちにその存在の姿がみられる。それらは交換・振動・波動として、あるいは成壊・生死の姿として示され、それがいのちの生きる姿である。
 たとえば生物は呼吸作用として酸素を取り入れ、炭酸ガスを放ち、同化作用として外物を食物として取り入れて自己の肉体を形成し、排泄物として自己の一部を放出する。これらの現象において、受け入れまたは与えるのみで与えることもしくは受け入れることがなければ、その個体は平衡を失し、その活動は停止する。それが死である。
 このことは一般には生命なしと見られる物質その他自然現象においても、絶えず酸化・腐蝕・流動により、互いに相手の欲するものを与え、自己の求むるものを受け取って現状を変化せしめ、新しい自己を形成しており、それは高級の生物のように愛もしくは欲というべき心意識は伴わぬようにみえるが本質的には何等異なるものではない。これらはあらゆるものを存在たらしめる「いのち」のはたらきであり、素粒子の微から法界宇宙の大にいたるまで、このはたらきを外れたものは一つもない。さればこそ神の本質が愛であり、その中に(いのち)のはたらきの投影された姿を眺めることができるのである。


 註@科学的にいう天は大空であり、地は大地を意味するが、次元的には互いに超越的関係にあるもののうち、高い立場にある者が天であり、低きものが地である。従って前者は働きかけるものすなわち陰であり、後者すなわち働きかけられて「もの」と発現するものは陽である。
  A老子はその道徳経の中で「道一を生じ、一は二(天地---陰陽)を生じ、二は三を生じ、三は万物を生ず。万物は陰を負うて陽を抱き、沖気(天の気・・・統一するはたらき)を以って和を為す」といっている。
  B月日(陰陽)二にして一なる元の神であり天文学的の月や太陽ではない。




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