性転換超熟女の独り言

 

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投稿者:ヘザー
SHUNCAHさま
いつも貴重なコメントをいただき、感謝して居ります。
私も子供の頃から、男って何だろう、女って何だろう、と考え続け、未だに結論が出ない状況です。
コメントを拝読しまして、常日頃私が感じていることにヒントを頂いたように思われました。
それは、ジェンダーの区分には、視覚・聴覚・嗅覚・触覚などの物理的な感覚で感じ分けるものと、精神的・感情的に感じ分けるものとがある、ということです。
前者は、目をつむり、耳を塞ぎ、鼻をつまんで、手を出すことを控えれば、区別をつけることは難しいでしょう。
後者は、仮に肉体が滅びた後でも精神が残ると言う思想を信じないまでも、前者よりは一歩進んだ、本質的な自覚だと思います。
でも、MTFの方々を含めて、女性として暮らしていらっしゃる人達の多くは、見た目の女性らしさだけを求めておられるように思います。
精神的な女性化こそが私の求めて来たものであり、いわば社会に迎合するために、外見の女性化に踏み切らざるを得なかったのです。
見た目ではなく、その人の本質的なジェンダーを認める社会ができるには、まだまだ時間がかかると思います。
投稿者:SHUNCAH
Heather様、いつもありがとうございます。この中国男性の女装記事は私も拝見しました。女性用の衣服を身につける事、女性として生活を進める事が女装であったとしても、社会領域としては、女性と男性の二区分しかないのであり、女装をするという事は、仮であっても社会属性としての女性属性を選択するという事ですね。こういうことを考えていると蔦森樹さんの論稿を思い出しました。蔦森さんは、『岩波現代社会学11 ジェンダーの社会学 岩波書店 1995年11月2日』に「ジェンダー化された身体を超えてー「男の」身体の政治性ー」という論稿を提出されています。この中で蔦森さんはこのようなことを言っておられます。「私には女性であるよりも女性に見えることが、ジェンダーグループの一員になる証明のように感じられた。しかし事は外見だけでは済まなかった。動作や行為といった行動様式、興味対象の選択、そして感情や反応などを含んだ日常の細部までもが、再ジェンダー化を求められた。(岩波現代社会学11 P138)」男性が男性であることが正常で、男性が女性を選択する事は異常である(勿論、女性の場合にも言えます)ということではなく、社会成員の一員として社会規範は自己責任において当然守るべきことであり、この原則に従って、男性性、女性性の性選択の自由を認めることができる社会であってほしいと思います。
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