(無題)

2012/12/22 
「マダム・ウツミ、どうぞ、そこへ……」
「いやですよ、あたしは……」
「どうして?」
「それ、フランスへ、持つてお帰りになるんでせう?」
「もちろんです」
「奥さまにお見せになるんでせう?」
「見せない理由はありません」
「ええ、でも、なんて説明なさいますの?」
「マドゥムアゼル・シムラの部屋におけるマダム・ウツミ……」
「信用なさるかしら?」
「信用、ああ、妻はわたしを信用してゐます」
「日本の女なら、信用しません。婦人部屋にゐる婦人の肖像を、あなたが持つてゐらつしやることが不思議ですもの。マドゥムアゼル・シムラはまつたく例外的に、あなたをこの部屋へお通しになるのよ」
「よくわかります。わたし、そのこと光栄に思ひます。妻にも、それはよく言ひきかせます」
「お笑ひになつてらつしやるけど、それほんとですのよ。
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い草栽培の情報について

2012/12/5 
だがここに大切なのは、概念が他ならぬ実在を把握し反映する限りに於て初めてこの機能が必要だったという点なのである。つまり、こうした諸概念を結合することによって実在の客観的認識を齎す際に、その結合は常に実在そのものの連関を再現するように行なわれなければならぬ、という点が大切なのだ。新量子力学や波動力学では、波動とか粒子とかいう範疇を極めて空想的に使用しているが、それにも拘らず夫が依然として科学的範疇の資格を失わないということは、夫々の理論が、理論的に同価値(エキヴァレント)であることによって、実在関係の唯一の反映であることを説明しているという点から、知ることが出来る。之に反して、例えば精神波動(?「生長の家」の)の如きになれば、第一に文学的表象として貧弱極まるものだろうが、とに角少なくとも、科学的範疇では絶対にない。メタモルフォーゼ(転身=変態)や親和力の観念あたりは、科学的想像と文学的想像との境界地帯に横たわっているだろう。文学的表象として之は今日でもその価値を失わないが、科学的概念としては今日では殆んど無用に帰しつつあると見ていい。だがそれにしても、かつてはゲーテ時代の自然科学(進化論は勿論のこと原子価の理論もまだ明らかでない)にとって、こういう云わば文学的想像に近い科学的想像力が、科学的認識に有効であったという歴史的事実は、今日に至っても消えはしない。
 文学的表象は確かに、科学的概念よりも、観念として自由だろう。どういう程度に自由であるかが之からの問題なのだが、とに角自由だ。と云うのは、文学的表象に於ける示唆・空想・誇張・象徴がより自由なのである。
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