錯覚  ことば

幸福についての決定的な錯覚は、現実の苦しみが少ないことが幸福と思ったことである。現実の苦しみの中で幸せである人はいる。逆に現実に起きていることはたいしたことではない問題なのに、大騒ぎして「苦しい、苦しい」と訴える人もいる。
それは起きていることそのことが問題なのではなく、「苦しい!」と訴えている人のパーソナリティが問題なのである。

現実の苦しみとその個人の実施の不幸とは大きな違いがあるとカレン・ホルナイはいう。

                               加藤諦三




人の問題は小さく、自分の問題は大きい、では無粋というもの。
自分の問題、自分の感情を「他人事」と思えるようになったらどんなによいか。目指してみるかな、その境地。

 

ものになる  ことば

身体を丈夫にし、頭をよくし、人間としての実力を大事にすることは当然のことである。僕たちは子どものときから、ほんとうに勉強し、ほんとうの人物につくりあげることは大事である。

一ぺんで人間はものになるものではない。絶えず自分を築きあげ、ほんとうに勉強する。
頭をよくし、ほんとうのりっぱな人間に築き上げることが大事で、ほんとうに信用できる自分に自分をつくりあげることが大事だ。一朝一夕に人間はできあがるものではない。若いときが大事である。ごまかし人間に自分をつくり上げてはならない。歳をとればとるほど、ものになる人間に自分をつくり上げなければならない。

そこが面白い。歳をとればとるほど、いろいろなことがわかり、ものになる。そこが人生の面白いところだと思う。その面白さを十分味わいたい。


                          武者小路実篤




こうしたまっとうな考えをまっとうに実行して、「自分の作品化」にまっとうに取り組んだのが明治人だ。祖父もそんな人だった。受け継ぎたい血だ。

 

立て板に水  ことば

内田樹さんのブログより



―― その一方、日常会話的な言葉は次々に生み出され、あっという間に認知されていきますね。
内田 「うざい」とか「ビミョー」とか「真逆」といった新語は、わずかな期間のうちに日本全土に広まりました。メディアに出る前に、もう拡がっていた。聞いた瞬間に意味がわかって、「これは新しい」と感じたら、子どもはすぐに使い出す。
ところが、複雑な感情や概念を表す新語というのは今の日本ではほとんど作られることがありません。このままでは、日本語の語彙はやせ細っていくしかない。最近の新聞で使われる漢字の語彙はもう僕が子どものころに比べても半分以下ではないでしょうか。

―― 深い意味を内包した言葉を生み出せなくなっていると。
内田 そうです。それを作りだすためには、「文章を書く力」が要るのですが、日本の学校教育では「創造的な言葉の使い方」というものを教えない。
たしかに、定型的な言葉の使い方には子供たちはすぐに習熟します。でも、出来合いのストックフレーズの在庫が増えるだけでは言葉が豊かになったことにはならない。どんな話題からでも無理やり自分の得意なところに持ち込み、用意していた台詞を一気に読み上げて、「どうだ!」と押し切るのが、今の日本でいうところの「ディベートのうまい人」です。でも、こんな能力は新しいものを作り出すためには何の役にも立たない。
本当のディスカッションというのは、「自分が知っていること」を言い立てることではなく、「自分がはじめて聞いた話」に反応することなんです。
そうすると、双方とも自分たちの話していることがよくわからない。何となく大事なことを話していることは直感されるのだけれど、気持ちの片づく表現を見いだせない。そういうときに、お互いに協力しながら新しい言葉や概念を作り出していったり、新しい感情の分節を発見したりするのが本来のクリエイティブな言葉の使い方だと思います。
当然、その過程では、口ごもったり、言いよどんだり、言い直したり、言い変えたりということが何度も起こるわけですが、今の若い人たちって、そういう戸惑いを「恥ずかしいこと」、「しちゃいけないこと」だとか思い込まされているんですよ。

―― 学校教育の場だけでなく、家庭でも職場でも、打てば響くように、立て板に水のごとく話すことを求めがちですね。
内田 そうなっていますね。これ、テレビがいけないと思うんです。テレビって制作費がすごくかかっているせいもあって、短い時間の中にメッセージを詰め込まなければいけないという制度的な要請があります。だから早口で、きちんと整理された話を、枠の中にきちんとはめ込むような語り口をするタイプの人しかテレビでは発言できない。
それを見て育った子どもたちは、ああいう話し方をするのが知的な人間であると思い込んでしまう。
討論番組を見ていると、ひどいときは二秒三秒で反論したり、自説の正しさ証明をしたりしなければいけない。でも、それんなことは、よほど話を単純化しない限りできるはずがない。「あなたの言うことも一理あるような気がするけれど、自分の主張も捨てがたい。どうです、ここはひとつナカ取って、玉虫色の落としどころを探しませんか」なんていう味のある対話はテレビでは絶対できない。ひたすら大声で自分が正しいと主張し、相手を黙らせることのうまい人間だけしかテレビには出られない。

―― 和を尊ぶ日本文化とは相反するのでは。
内田 本当にそうですね。僕はほんとうに非常にシビアな対立点がある場合には、相手の言葉にまず「うなずく」ところから始めるというのが、合意形成には非常に役立つと思っているんです。「うなずく」というのは、必ずしも「同意している」ということを意味しません。意見が違う人の話を聞く場合でも、「なるほど、そうですよね、そういうことってありますよね」と、とにかく首肯しながら聞く。身体でそういう動作を行いながら相手の話を聞き、向こうの語りのリズムとか、声のピッチにだんだん身体がなじんでくる。そうすると、なんとなくその人がその主張をなさざるを得ない「やむにやまれい事情」が頭じゃなくて、身体でわかってくる。
「この人がこれだけきっぱり確信している以上、何か切ない事情があるのだろう」と思えてくる。
だいたい議論の対立点というのは、ほとんどの場合、過去の経験則に基づいて、未来の出来事について「たぶんこうなるだろう」と予測していることが違うから起きるんです。事実関係で争っているわけじゃない。未来予測が違うんです。どちらかが正しくて、どちらかが間違っているから対立しているわけじゃない。まだ起きていないことについて、「どちらの予測の蓋然性が高いか」を論じている。お互いに、どういう情報に基づいてそれぞれの未来予測の確かさを根拠づけているかを開示し合えば、歩み寄ることは決してむずかしいことじゃない。

―― ネット上のやりとりでは起こりえないことですね。
内田 こればかりはできないですね。










単純明快、流暢、理路整然、丁々発止、侃々諤々…だけが話力の価値じゃない。

 

生身  ことば

…忍耐力が要る、きめこまかいネゴシエーションは生身の人間が顔と顔を接して進める他ないからです。
政治的対話というのは、最終的には、生身の人間と向き合ったときの「この人は信用できる」という身体的な確信がベースになる。その上に交渉が積み上げられてゆくわけで、
レンガを積むのと同じで、基礎がぐらぐらしていては何も建設できない。

でも、この「この人は信用できる」という確信はネットコミュニケーションで獲得することは簡単ではありません。やはり、顔が見え、声が聞え、手が届く範囲の具体的な人間関係を経由せずには、十分信頼に足る社会的な信頼関係は築けないと思います。

                                    内田樹




学校に人が集まって勉強する、という価値はここにあり。

 

化け物  ことば

勝負ごとで、よく「己の力を信じろ」という言葉を耳にします。
冗談じゃない。己なんか全然たいした人間ではないことくらい、自分が一番よくわかっているはずじゃないですか。
自分を信じ切れないからこそ、ああでもないこうでもないと考え、思い悩む。


勝負というものは、その場になって、ふだんの自分にはない化け物みたいな力が出てきたときに、はじめて勝てるもの。自分の力への自信だけでは、とても勝ち目はないのです。




ツイている常態というのがどんな状態かというと、まるで、自分の身体にでっかい得体の知れない何物かが乗り移ったみたいになる。



                               桜井章一




フロー、ゾーン、潜在能力、化け物…みな、教育の研究対象である、はず。
 



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