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2012/7/30 

四 私達は民藝の美に盲目であっていいか

 もし民藝品たる「大名物」に、美しい器という烙印
らくいん
が押されているなら、なぜ他の多くの民藝品にも大名物格の美を認めないのであるか、私はこの問い方を極めて合法的であると思うのです。
 茶器だから美があるのではないのです。まして美が外国人さん 出会い系茶器に限られているのではないのです。茶器と同じ所産心から生れたものがいかにまだたくさんあるでしょう。たまたま初代の茶人達の眼に触れたものは、外来の民藝品のわずかな種類に過ぎないのです。残る幾多のものが彼等の眼に入る折なくして終ったのです。これは茶祖が他の民器の美を認め得なかったからではありません。想うに諸般の工藝が栄えてきた後代に彼等がいたら、いかに豊富な材料を茶器として取り入れたでしょう。だが独創と自由とのない後代の茶人達は、茶祖が見ることを得なかった幾多の美しい民器が、彼等の周囲にあったにもかかわらず、定められた茶器以外に茶器はないと誤認するに至ったのです。ついには全く形式化して、「茶」の精神を忘れ、ただ古い型のみを襲踏するに至りました。
 だが私達はそれでいいでしょうか。かくも豊かにそれ以後にできた美しい民器に取り囲まれながら、いつまでもそれ等のものに盲目であっていいでしょうか。「大名物」
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2012/7/30 
茶室を見て、地下の光悦は嘆息しているでしょう。冒涜
ぼうとく
でないと誰が云い得るでしょう。
 茶料理とても同じなのです。今は山海の珍味を旨とし、強
しい
て季節はずれのものを誇ります。したがって価は極めて高いのです。だが真の茶料理はそうではないはずです。その土地のもので季節の品を選ぶのが本筋なはずです。それも田舎の手料理がよく、そこには土地の香りがあり、自然の健康な味いがあります。京に入らば茶料理で名高い瓢亭を訪うて見てください。今も民家を装い、旅の人に売ろうとて掛けた草鞋
わらじ
を見るでしょう。風情には古格がよく残っています。だが今の料理にもう正格はありません。すでに都びて富者の客を待つばかりなのです。草鞋は飾りとしてのみ淋しく残っています。用いる器とても全く民衆の品から離れました。
 茶道の深さは清貧の深さなのです。茶器の美しさは雑器の美しさなのです。読者はあの「大名物」の美を信じてくださるでしょう。そうして渋さを美の最後と解してくださるでしょう。それならその信頼は民藝品への信頼だと考え直してくださらないでしょうか。もし茶人達の、世にも優れた眼を慕われるなら、民藝品への眼をこそ愛されていいはずです。私の直観が民器に美を見出したのを、なおも独断だと思われるでしょうか。茶人への信頼はすべての疑惑を解いてくれるでしょう。幸いにも読者の敬慕する初代の茶人達がその並ならぬ茶道において、民器の深さを説いてくれているのです。私は安心して次の章に移ろうと思います。
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