2010/11/1

キャリアパスのインフラ  

 高度成長期以前の日本人のキャリアパスのあり方は、家業を継がせる伝統が強く生きており、家業を継ぐことのできない次・三男たちは、縁故採用や、それすらも得られなければ当てもないまま、とりあえず仕事のありそうな都会に出て職探しをする、というのが基本的なあり方だったように思います。

 そういう意味では、戦後改革がもたらした基本的人権としての職業選択の自由や結婚の自由は、多分に理念的なレベルにとどまり、諸個人が置かれている実態のレベルにおいては、伝統的な“家”の支配のくびきに依然として縛られていたわけです。

 高度成長期の過激な産業構造の転換は、そういう保守的な観念を根底から揺るがしました。農家でも商家でも、職人の世界でも、家業を継ぐ代わりに、とりあえず学校を出て「サラリーマン」として就職する(日本では工場で働くブルーカラーも「サラリーマン」になりました)というキャリアパスへの転換が急速に、過激に進行しました。

 産業構造の急激な転換に伴う「人手不足」を解消するためにこの時に生まれた、学校に職安の機能を代替させる日本独特の新規学卒一括採用システムは、高度成長期からバブル崩壊にいたるまでの日本人のキャリアパスの定型となりました。

 個人の自由な職業選択という夢は、なかなか階級社会から脱却しきれないヨーロッパにおいても、“機会の平等、結果の不平等“の国アメリカにおいても、理想とはかなり隔たった現実がありますが、日本の場合には、主体的選択を励まし、保証する教育システムを欠いたまま、一元的な偏差値システムへの受動的な適応に置き換わってしまいました。

 しかし、伝統的な家業に変わるキャリアパスのシステムとしては、この新しいキャリアパスのシステムはあまりにも脆弱なものだったと言わざるをえません。

 極端に新卒偏重で、自由な職種別の労働市場の発達が阻害されてきた日本の労働市場においては、個人が主体的にキャリアパスを設計するためのインフラの整備は、一元的な偏差値による選別機構が機能しているうちは、実質的に棚上げされてきたのです。

 しかしバブル崩壊後の日本においては、新規学卒一括採用システムは少数のエリート学生を大企業同士で奪い合うためだけのものとなり、降りさえしなければとりあえず就職させてくれるエスカレーターではなくなってしまいました。

 子ども時代の不登校の延長のように思われていたいわゆる「ひきこもり」の問題は、90年代後半くらいから、就職活動の失敗をきっかけとして始まるものを多数含むようになってきています。

 親の後を継ぐというキャリアパスのインフラが形を変えながらも強固に残っているヨーロッパとも、機会の平等に基づくキャリアパスのインフラが整備されているアメリカとも異なり、日本ではどちらのタイプのインフラも貧困なのです。
 
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2010/10/18

ソンミサン・マウルのユ・チャンボクさん  

韓国ソウルで、いま住みたい町として人気を集めているソンミサン・マウル(マウルとは韓国語で町のこと)で、まちづくりの活動をされているユ・チャンボクさんの講演会(NPO法人希望製作所他共催)に行ってきました。

日本でも60年代から70年代にかけて各地で共同保育所をつくる運動が展開されましたし、学校を基地にお父さんたちがまちづくりにのり出した秋津町のような事例もありますが、そうした日本の市民運動の成果なども貪欲に吸収し、さらに生協をベースとして、日本に先行して法制度化されている社会的企業の仕組みなどを利用したリサイクルショップや劇場づくりなど多面的な展開をしているところは、東アジアにおける新しい社会文化運動の展開として注目したいと思います。

民主化以前の時代に学生運動の闘士だったような人たちが、親となり、地域の生活者として協同していくプロセスのさまざまな紆余曲折について、ユーモアたっぷりに語り、フロアからの質問にも懇切丁寧に応答するユ・チャンボクさんは、とても魅力的な人柄で、3時間があっという間に過ぎてしまいました。
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2010/10/14

冬の小鳥  

岩波ホールで上映中の「冬の小鳥」を見てきました。

原題は「旅行者(ヨヘンジャ)」。

ウニー・ルコント監督が、自身の体験に基づいてストレートにテーマを表現しているタイトルだけに、興行上の理由からセンチメンタルな邦題がつけられてしまっているのは残念な気がします。

父親に「旅行に行く」と騙されて孤児院に置き去りにされたチニ(主人公の少女)は、捨てられた事実を受け入れられずに、かたくなに抵抗を試みますが、最終的には“死と再生”の儀式(小鳥がシンボリックな小道具として登場します)を自らとりおこなって、決然と「旅行者」として養親のもとへ旅立ちます。

養親のもとへの道行きはチニにとって残酷なもので、乳飲み子を抱えた若夫婦に伴われていくのですが、かいがいしくわが子の世話に専念している若夫婦に目もくれずに、まっすぐ前を見つめているチニの表情が印象的です。

「旅行に行く」という父の嘘を主体的な選択に変換し、生涯「旅行者」として生きるために歩き出すチニの姿には、監督自身のアイデンティティが投影されており、「かわいそう」という感傷を跳ね返すような強い目力(めぢから)をもつ少女を、キム・セロンが好演しています。
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2010/10/9

消えた少年たち  

お風呂のなかで読んだり、寝床に入ってから眠気が訪れるまでの間に読むために、早川書房のSFを買うのが習慣になっています。

今回読み終えたのは、オースン・スコット・カードの『消えた少年たち』(上・下)です。

この作品はいわゆるSF的な趣向はあまり前面に出てこない作品で、ある家族が遭遇した出来事を通じて家族の物語が展開されています。

ある意味で作家の“自画像”的な作品であり、モルモン教徒の日常とその内面生活のディーテイルが詳細に描かれていて、とても興味深く読めました。女優の斉藤由貴さんが単行本の解説を書いていますが、人間がつくる集団である教会と個人の信仰の関係に関する実感のこもった解説(感想?)はなかなかよかったです。

衝撃的なラストはこの作家のストーリーテラーとしての並々ならぬ力量を感じさせますが、そこから受ける感慨は、意表をつく趣向のおもしろさによるものだけでなく、深みのある人間描写に支えられた小説としての完成度からもたらされるものであるように思います。
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タグ: SF

2010/10/3

子育て・教育のコストを誰が負担するか  

日弁連人権擁護大会プレ・シンポジウムin群馬に行って来ました。

若手中心に企画運営が行われていて、意欲的な姿勢を感じ、内容も充実していたと思います。

そこで提起されたこと受け止めたうえで考えたことがあります。

まず、子どもは教育にかかる費用を自分の責任で負担することができず、たまたま裕福な家庭に生まれるか貧しい家庭に生まれるかという本人の責任ではない事柄で、教育を受ける機会が左右されることは原理的に不正義であるという意味では、子育て・教育にかかる費用は基本的に社会が負担すべき、という考え方は重く受け止める必要があります。

しかし、多くの若者たちは、子どもを持つことで家族を守る責任感に目覚めるという経験を通じて一人前の大人になっていく、ということにもまた重要な意味があるように思います。

若者たちの、いわゆる“やんちゃ”な行動の背後には社会的な不平等の問題が厳然と存在しているのですが、そしてそういう若者たちの一部は虐待問題を引き起こす若い親になったりもしているのですが、そういうタイプの若者たちにとって、とりわけ、自分の子どもを持つということが、いつまでもむちゃをしているわけにはいかないとまっとうな生き方を選択する重要な契機になっているような気がするのです。

子どもの貧困の問題はかなり緊急性を要する問題であり、社会的な解決が求められていることはまちがいないのですが、貧困の責任を個人責任に還元してしまうような仕方ではなく、しかし、若い親たちを受動的な被支援者にとどめてしまわず、社会的な解決に責任ある仕方で参加させるような仕組みをつくる必要があるのではないでしょうか。
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