自己紹介とブログ説明  

 こんにちは、私は紫(ムラサキ)といいます。
このブログは主に私がツイッターやフェイスブック上で書ききれなかったことや、詳しく記事のかたちにしてみなさんにも読んでいただきたいことをアップして行きます。
時には日常の個人的に記録しておきたいことについて記事を書くこともあるかもしれませんが、基本は毎回投稿の際にはテーマを決めて書くようにしようと思っています。
記事タイトルを見て、気になるものがあれば読んでみて下さい。

☆自己紹介☆
 私は現在働き方を考えながら日々を過ごしている20代です。
また視覚に障害があり、片目で光を感じられる程度の視力で生活しています。
このブログや普段のネットの操作は、アイフォンやパソコンから行っています。
パソコンや電化製品が好きで、それらを様々に駆使して活動しています。
歩行に関しては白杖を使用しています。

 性格は基本マイペース!
新しいことや興味を持ったことについて調べたりするのが好きですが、会話がちょっとへたくそです。
だいぶ上達してきたのですが…、まだまだ改善したい点がたくさんあります。
でも自分の思っていることを書くのが好きで、その影響でかなり前から日記やブログを書いていました。
フェイスブックやツイッターで情報を得たり発信することを楽しんでいます。
そして慎重派です。
何事も準備の段階をとても重視します。
思い切ってやってみるがなかなかできないのは良くも悪くもだなあと感じています。

 趣味は読書や音楽。
音楽は聴くことも演奏することも好きです。
JPOPはけっこういろいろ聴いてます。
たとえば中島みゆき・熊木杏里・中村中・HY・小田和正・kokiaさんなどはお気に入りです。
演奏はクラリネットを吹いています。
歌やキーボードも少し。
音楽は私の元気の源です。
疲れた時、ここぞと踏ん張りたい時に、その時々に合う応援歌を脳内再生しながら日々を過ごしています。
 本は小説系を読むことが多いのですが、なるべくいろいろな分野の本を読むようにしています。
最近は銀色夏生さんの詩画集、名言集、人との関わりにちょっと苦手を抱えている人物が出てくる本に興味を持ち、読書に選ぶことが多いです。
また、社会心理学関連の物やコミュニケーションに関する内容の本に興味をもっています。

 私の中には読書や日常の人との関わりを通じてずっと考えていくであろうテーマというか、よく反応するキーワードのようなものがあります。
たとえば、かなりたくさん挙げますが以下に並べてみます。
個人と集団、人の情報の受発信・認知、意思・行動決定、複数人の中の自分の在り方、自己表現と他社理解、環境絵の適応・参加、内向的・外交的、一人時間(ソリチュード)、孤独、自立などです。
上記のものに関係しそうな文献を発見すると、時間を見つけては読み集めています。
きっと自分が人とどう関わっていくのかということと、自分も周りの人も大切にしたい時にどうすると良いのかということを考え続けて行きたいのだと思います。

 私について、このような紹介では想像が難しい部分もあるかもしれません。
でも他の記事等から追々わかってくる面もあるかと思います。
ということで、よろしくお願いします。
 またブログへの問い合わせなどがありましたら、トップページの「掲示板」のリンクからお寄せいただけたらと思います。
お気軽にお寄せ下さい。
コメントいただけると新たな気づきをいただいたりすることもあるので、とても嬉しいです。
 最後に、このブログは目で読みやすい文字や色使いを十分にできていない可能性があります。
私だけではなかなか気付くことが難しい面もありますので、お気づきの点についてはご一報いただけるとありがたいです。
できるかぎり読みやすくなるようにしたいと思っていますのでよろしくお願いします。
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2017/8/15

写真とは  

 私にとって写真とは、目でとらえることのできる物事を切り取り、確認することに役立つものです。
思い出の記録媒体の一種ともいえますが、それ以外の場面でも写真には色々と助けられています。

 私が写真撮影を頻繁にするようになったきっかけは、iPhoneのアプリで、
写真に写っている物体や風景について自動で解説を付けて答えてくれるというアプリを使うようになったことでした。
自分が今着ている服を撮影してなんと読むかやってみたり、
作った料理の写真も同じようにアプリに送り、どんな説明が返ってくるかを楽しんだりしていました。
このアプリをきっかけに、写真の面白さを感じるようになりました。

 また、写真をフェイスブックに投稿することが増えると、
写真がない文のみの状態よりも、私の雰囲気や周囲の様子をより伝えられるということにも気づきました。
みんなが見て読んでくれていることへの嬉しさも増しました。
 それに、フェイスブック事態も、投稿された写真に自動的に文字で説明を加えてくれるようになると、
今度は自分の写真だけでなく、みんなの写真にどのような物や風景が写っているのか知ることができるようになりました。
こうなるとさらに写真を意識するようになり、今ではすっかり私の生活に写真という記録媒体がなじんでいます。

 写真を撮ることによって、私は手で触れることが難しい物の様子を知ることができます。
空に雲が浮かんでいることや、遠くに木があるということ。
時にはこんなことも。
太陽が出ていて、空にカメラを向けて撮ったら快晴の空の写真をgetできるのではないかと思ったのに、
アプリで確認してみたら電線が写っているということもありました。
それで撮りなおすのだけど、なかなか何度やっても空だけという状態にならず。
5回ほど撮りなおし、ようやく納得の説明がついた写真を撮ることができました。
このことから、自分の頭の上には、自分が想像しているよりも飛び出している物があるのかもしれないと考えるようになりました。

 私は視覚に障害のある人、特に全盲かそれに近い人たちにとって、写真は年々関わりが深いものになっていっていると感じています。
紙の本をスキャナによって写真として取り込み、OCRの技術により文字認識をし、書かれている内容を確認するという方法にも、もちろん写真は欠かせません。
そこから得られた文字(テキスト)情報を画面読み上げソフトが入っているパソコンで読めば、紙の本の内容を確認することができます。
日本語はひらがな・カタカナ・漢字・数字・と、様々な字が組み合わさってできているので、
OCRの技術も複雑な認識技術を開発して来ているのだと思います。
私は読書が好きなので、どうにか本を読もうとよくこの方法を行うので、
写真とOCRの技術は、日常に無くてはならないものです。

 そして今は静止画の写真に大いに助けられていますが
、今後は徐々に動画を写すことのできるカメラに注目するようになると思います。
現在はまだ自分の手元ではなかなか体験できませんが、めがねにカメラを付け、そのカメラが写した画像情報からすぐに何が写っているか音声で返してくれるというものが開発されているそうです。

 私が思うに、視覚の最大の魅力は、触れられないほど遠くのものの存在をそれに近づくかなり前から知ることができるということだと思っています。
例えば、あまり来慣れていない場所でバス停を探していたとしたら。
確かに視界に入る距離まで近づかないと「あった」とはなりませんが、見つけさへしたらそこに近寄る時には安心と自信を持って近寄れます。
視覚を使っている場合、「バス停かもしれない」が「バス停だ」と断定になることは、早い段階で起こりやすい。
視覚を使っていないでバス停を探す場合は、慣れている場所でないと、断定できるのはほとんどバス停に触れられてからという可能性が高いです。
 もう一つの例えは、向こうからやってくる人の中から特定の人を見つけ出し話しかけるとしたら。
これもその場によってはっきりと「あの人だ」と断定できる距離は異なると思いますが、特徴がはっきりとわかる人であれば遠くにいる段階でも確信が持てます。
以前ある人と待ち合わせした時、私のことを相手がだいぶ前から見つけていたようで、信号を渡って私が歩いている所まで迎えに来てくれたということがあり驚いた経験があります。
私の場合、声が届く範囲で相手が声を出してくれていないと、遠くでも特定の相手を認識するということは難しいです。
しかしカメラが遠くのものの情報を伝えてくれたら、今より事前に察知できる事柄が増えそうだと思うと、
そのような技術・カメラは魅力的です。

 このように、カメラ・静止が・動画の技術は、今や見て活用するだけのものではなくなっています。
画像・動画から情報を読み取り、その情報が音声に変換されたものが今、私の生活に浸透してきています。
きっとこれからもこれらとの関わりは続き、様々な発見につながって行くと思います。
それを生活の中で体験できることを、今私は何となくではあるけれど楽しみにしています。
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2017/8/11

会いたいに素直に向き合えるように  近況日記

 行きたい場所へ行くとか、会いたい人に会いに行くための手段や安全な計画の立て方ということについて。
私はこの数年で徐々に身に付けられてきた気がしています。
特に今年は行動範囲が広がりました。
初めは一人では行けなかったお店やイベント会場にも、できるだけ自分が知っていて安全なルートを活用して向かえるようになりました。
一人では行けなくても、行けるところまで行って、目的地にいる方に迎に来ていただけないか依頼し到着できる場所というのもできました。
しっかり計画が立てられていれば、ガイドヘルパーの方に外出サポートの依頼もできます。
そのようにして行動範囲が広がったことで、元気な声を聞きたいなあとか、お話したいなあと思う人に会いに行けるようになりました。
積極的に外出するようになった自分を見つめ返す時、私良い感じともっとも思うのは、この誰かに会いたいと素直に思えている私に気づく時です。
そして自分の住んでいる地域に、好きな場所が増えて行くことも、とても良いことと感じています。

 私の関心が外(学校以外のお店や地域全般)に向かいだしたのは、本当にここ数年のことです。
それは私と関わってくださる方々が、色々な場所に私も連れて行ってくださったおかげです。
高校卒業までは特に学校以外の場や人についてあまり意識せずに暮らしていました。
人間関係も、学校と寄宿舎にいる人との関係がほとんどで、特に寄宿舎だとみんなそんなに離れていない場所にいるので、
友達に会いに行こうと思ったら2分ほどで叶ってしまうような環境でした。
隣の部屋をたずねるか、遠くても階段の上り下りをすれば到着できるような具合なのです。

 しかし大学生になり、寄宿舎生活ではなくなったことで、ほぼ初めて、
会いたいを実現するには行動力が必要だということに気が付いたのでした。
ところが気づきはしたものの単独歩行に今より不安や緊張が強かった私は、その不安や緊張にすっかりやられてしまい、
会いたいと思いすぎたら、会える場所まで行けないとなった場合悲しくなるから、なるべくなかなか会えなくても平気と思えるようになった方がつらくないなと考えるようになりました。
そうです、留まり系の対処法を身に着けることを選んだのです。
ただこれは今思うにということなので、当時は無意識というかそこまで明確な意識でそうしていたのではなかったのかもしれません。
歩行することで感じる疲労は、肉体よりも精神的な疲労が強く、
疲れをとるのに時間がかかるのでこのような考えをした面もあると思います。

 今まで生きてきた26年の内の半分以上の時間で、身に着けやすかったのは、一人時間の楽しみ方でした。
楽しい一人の過ごし方について、意識的に身に着けだしたのはいつごろからなのでしょう。
今でこそ一人の時間はないと困るという私ですが、きっかけは何かあると思います。
思うにクラスメイトと一緒に勉強できる科目が少なかった中学生の時期からなのではと思います。
先生と私だけの授業を寂しいとか息苦しいとかあまり思いたくないという気持ちがあり、それならばたとえ一人でも楽しまなきゃと考えるようになったことはなにか関係ありそうです。
そうして暮らして行った結果、高校卒業の頃には、自分なりの好きな一人の時間の過ごし方・考え方を見つけられている状態になっていました。
私はこの時点の私のことがかなり好きでした。
しかし今はその一人時間の楽しみ方ばかりでなく、誰かとの時間も好きになれた最近の私の方を、いくらか嬉しく思う私がいます。
でもまだやっぱり外に出るとなると気合を入れている自分に気づくようなことがあると、ちょっとまだ偏っているのかな、それでもいいのかななど考えてしまうので。
この気持ちたちの、なるべく無理のないバランスを見つけることが大切なんじゃないかなと思っています。

 私は今まで、会いたい人に会えなくても寂しく思わない自分なりの対処方を探して組立使ってきました。
さらにいざその人の近くまで行けた日でも、ちょっとした移動の難しさの影響で挨拶の機会しか得られず帰るという日もあるので、
そういう状況にも備え、気持ちの持ち直し方とかも考えてきました。
話したかった人と話せずに終わってしまっても、心残りがあっても、最大限仕える時間を使い果たしてしまったなら、移動を開始しなければならないのだから、
潔い切り替えができないとと思うのです。
 私の場合、移動の時には冷静さと集中力を強く必要とします。
だからリラックス状態から歩行モードに気持ちを切り替えるために、感情乱れないように整えるための考え方や行動を必死に探し積み重ねてきました。
モード切替の考え方を私はとても大切にしています。

 私なりの一人時間の過ごし方は今も続けています。
どれもこれからも宝物なことには変わりないと思います。
一人の過ごし方についての気づきは変わらず全部大切です。
この今までの対処法は私の気をしっかり引き締めてくれることでしょう。

 けれど前より動ける私になれたから、今までの方法をがっちり作動する機会は減りそうだと感じています。
素直に会いたいという気持ちになっても、もう以前の不安ばかりにとらわれている私ではなくなっているのです。
この動ける力が備わってきたということも、決して忘れてしまわないようにしようと思います。

 一人の時間も楽しい、誰かとの時間も楽しい。
どのような状況の中であっても、それなりに楽しみ方や味わい方を持っている。
それは何かとても頼もしい状態と言えるのではないでしょうか。
そう思えてきている自分に気づいた時、なんというか、
無理やり納得させてきたような自身の感情は、すーっと背中の方に移動していったような気がしました。

 これからももっと外での過ごし方も身に着けて行けると思う。
そしたらさらに自由に日々を暮らせるようになる。
無理な我慢は減る。
一人でもいられるし、会いにも行ける。
歩行の不安や緊張に対する免疫?も付けられる。
これはとても良いこと。
自分の変化を自分で楽しみにしている私です。
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2017/8/10

ツイッターが好きな理由  ツイッター・ネット関連

 私は大学2年生の頃からツイッターを使用するようになりました。
最初はおもしろそうという興味本位からでした。
日記やブログを日常的に書いている私なので、文字を書き投稿するサービスときくだけですぐに気になり始め、当時使っていた携帯(らくらくホン)からも閲覧できるとわかると、速攻登録しました。
その後今でもツイッターは、私の日常の中で重要な存在となっています。

 このツイッター、私はとても大好きです。
以前にも私のツイッターの使用法を書きましたが、今回ももう少しツイッターの好きなところや、ツイッターに感じている感覚のようなものについて書いてみたいと思います。

 私はツイッターの世界には、投稿している人の心の声が文字になった形の、比較的飾り立てられていない原石のような物が、
ゴロゴロと、しかも莫大な数あると感じています。
それらが流れてくるタイムラインは、私にとっては原石が流れてくる魅力的な川の空間です。
現在私はタイムラインでやく430件のユーザーの投稿を見られるようにフォローしています。
日中は特に投稿しているユーザーが多く、タイムラインは賑やかに流れます。
どの人も様々な話題を流しています。
昼食の話し、たった今出会ったヒヤリとする光景、通院のこと、出来上がった絵の話、今考えていること…。
本当に様々です。

 この文字の川はすごいのです。
どのようなユーザーをフォローしているかにもよりますが、互いに何も関係のない様々な話題がドンドン流れてくるので、
それを追っていると色々な気づきをもらえるのです。
今の自分がどのようなことに特に関心が強くなっているのか、
どのような言葉に感情が揺さぶられるのか。
そういう自分の反応を意識することを通して、今の自分の心の状態を知る手掛かりをもらえるのです。
まあ私が勝手にこれを自分を見つめるための一つのツールにしているというだけなのですが。
しかし時に飾りのない何気ない言葉からも、何かとっても大切なことや、それすごくわかるなあということが伝わってくることがあります。
私はその瞬間が大好きです。
私にはちょっと見られていると思うと思いきらないと書けないと感じるような言葉を、会ったことはないけど似た思いを持つ人がはっきりと書いて川に投げている。
そういうものがゴロンゴロンとある処がツイッターなのだと思っています。
そのような投稿を読むと勇気づけられるし、私も発信を諦めないようにいようと思えます。

 そしてツイッターとブログでは、私の場合投稿する時に感じる気持ちも違います。
発信したい内容によって、これはツイッターにしよう、こっちはブログだなということがあります。
大きな判断基準は、じっくりと読んでほしいかそうでないかということです。
伝えたいけど深くは気にしないで読み流してほしければツイッターへ。
伝えたいし、できれば読み返して受け取ってほしければブログへ。
そんな感じで使い分けています。
私は言いたいことがあっても、それをすぐに言葉にして伝えるということに苦手意識があり、
リアルに対面している人に直接思いを伝えるということに失敗することが多くあります。
伝えたいことが夜眠る前など、一人になれた時にやっとまとまるということがよくあります。
それで後悔することがよくあります。
それでモヤモヤしてしまい、溜め込むと眠れず考え事をグルグルしすぎると大変なので書くということになるのです。

 そんな時にツイッターは最適です。
誰に当てるでもないことだけれど、心の中に置いておくだけでは息苦しくなったり大きくなりすぎそうと感じるものは、そっとツイッターの川に流すのです。
できればこれを思いをまとめる速さを増す練習に仕えたらと思うのですが、はたして向いているのか、
もっと他の方法が必要なのか、今はその辺りを検討中です。
誰かと話しながらでも、自分の思いもまとめられるようになりたい。
ツイッターが好きという話からは少しそれていますが、書くことで自分を確かめている私には重要な課題です。


 ツイッターは今後も私の思いの表出を助けてくれるツールでありつづけるでしょう。
私は思いを貯めこまないため、自分だけではうまく言語化できないことを少しでも伝えられるようになるために、ツイッターを必要としています。
最近、rtする時は一度姿勢を正していたり、いいね(お気に入り登録)をする時はそのボタンを何度も激しく連打したいような面持ちでしていたりします。
何度も言うようですが、本当に様々な考えと表現に出会えるツイッターは魅力的で大好きです。
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2017/8/10

慣れるということについて  

 慣れることは何事をするにも大切なことですが、
それはその物事を、例えば目をつむっていてもできるようにするということではないと思います。
淡々とこなすふるまいを目指し、その方法を身に着けることではないと思います。

 慣れとは、一定の工程が頭の中に描けており、見通しを持って取り組むことができるようになっている状態のことをいうのだと思います。
目をつむっていても何かできると、強い自信が沸くようにも思えるものですが、
同時に侮りが出てくる可能性があるから、注意が必要です。
 例えば何か非常事態が起きたら、冷静に対応できるでしょうか。
何か起きてから目を開けても、すぐ対処できたらプロと言えると思うのですが。

 だから何かをする時には、慣れることがもっとも大切という訳ではなく、慣れの要素7割、注意力3割くらいの割合をイメージするのがいいかもしれないと思います。
常に緊急時や想定外の対処方法を可能な限り考え、柔軟な対処の考えを持っていることが大切だと思います。
理想っぽいとは思うのだけど、油断とか侮りは禁物だよなと思います。
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