2012/12/20

(無題)  

が、どの方法を考えてみても、結局、いそいでなじったりなどしないほうがよさそうでした。
 そうこうしているうちに夜があけましたが、その日、私は町へ行く手筈になっていたのです。しかし私の心はすっかり滅茶滅茶になっていて、到底商売上の取引などは出来そうにもありませんでした。また私の妻も私と同じようにすっかり平静さをなくしているらしく見えました。私には、彼女が窺うようにチラッと私を見た目つきでそれが分ったのです。そして彼女はまた、彼女が前の晩した云いわけを私がちっとも信じていないと云うことを知っていて、どうにかしようと考えていることも、私にはよく分りました。――私たちは朝飯の間一言も口をききませんでした。そして朝飯がすむとすぐ私は散歩に出かけました。私は朝の澄んだ空気の中で、昨夜からの事件を考え直してみようと思ったのです。
 私はクリスタル・パレス(ロンドンの南部にある遊覧所)の辺までも歩いていって、そこで一時間ばかり腰かけておりました。
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2012/12/6

(無題)  

彼自身も後者の類例をある程度まで承認している。「琥珀の中の蝿」などと自分で云っているが、単なるボスウェリズムでない事は明らかに認められる。
 時々アインシュタインに会って雑談をする機会があるので、その時々の談片を題目とし、それの注釈や祖述、あるいはそれに関する評論を書いたものが纏まった書物になったという体裁である。無論記事の全責任は記者すなわち著者にあることが特に断ってある。
 一体人の談話を聞いて正当にこれを伝えるという事は、それが精密な科学上の定理や方則でない限り、厳密に云えばほとんど不可能なほど困難な事である。たとえ言葉だけは精密に書き留めても、その時の顔の表情や声のニュアンスは全然失われてしまう。それだからある人の云った事を、その外形だけ正しく伝えることによって、話した本人を他人の前に陥れることも揚げることも勝手に出来る。これは無責任ないし悪意あるゴシップによって日常行われている現象である。
 それでこの書物の内容も結局はモスコフスキーのアインシュタイン観であって、それを私が伝えるのだから、更に一層アインシュタインから遠くなってしまう、甚だ心細い訳である。しかし結局「人」の真相も相対性のものかもしれないから、もしそうだとすると、この一篇の記事もやはり一つの「真」の相かもしれない。
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