2012/6/6

(無題)  

「そうですよ、お母さんも感心しているんだけれど、あまりその方面の話はまだしていないの。どうもこのせつぼんやりしていたくてねえ」
「人間の微力という自覚からも信仰にはいれると思うけど」
「小谷さんのは、初めから献身的なんですよ」
「いや、ほかの人の場合では」
 そう会話しているうちに、もう私の気持は全くこのような会話はどうでもよいと思われるほど、別の思いで、占められていた。一家の離散をあとに病児と共に入院してきた私には、現在息子と娘とが共力して彼等の小さな家を支えていることが、容易ならぬ困難に想像された。自力で開拓して行く道は勉学よりほかないと云い、自宅で幾人かの生徒を教えつつ目的に向い、妹はこの兄の志の徹る日を援けるかの如く会社の勤めに通うていた。
 眼前に居る息子は若々しい青年の面貌に、既に現実苦と取組んだ沈痛な色をうかべていた。静かで無口で、病母を見舞うている彼れは、未だ母も己れも窮状につながれ、また共に棲む時も、さらに他に別れて住む父も、父の故郷にあずけた末弟も、同じ絆につながる苦境にある者たちとして、今何ひとつ語る言葉もないと云ったようすであった。
 私は黙って静臥し、息子も傍らの椅子にかけて黙って、しばしの時を過した。
 息子が帰ってから枕もとに置かれた心づくしの果物や私の好きな浜納豆など見ると、私の頬に熱いものが流れた。私の故郷の名物浜納豆は東京では探して買うので妹が購めたのを持ってきたと云う。ある日には娘の方が私を見舞うて、勤めの合間に縫うたという下着るいや、寝衣などを都度々々に持参してくれた。母の私が子供のために何事も為しえずに、と思って私は胸が詰った。父の故郷にあずけた末の児を思う日も、その時を指しては云えなかった。食事の間にも、霜の朝にも、ひとの子供の声にも思った。
 私は回顧にひき戻され、現状に思いを馳せ、行末まで模糊と病躯に思い煩った。家族に会ったあと、私が窓にも向かず物思いに沈んでいると、小谷さんは、お子さんが来られてお嬉しかったでしょうと云ってくれた。私も思わず微笑をかえした。が血肉にあい倚る者の思いはなまやさしいものではなかった。小谷さんは一年も二年も見舞いもうけない病人もあると話し、眷属というものが一人もなくて、着がえは愚か、小使いの一銭もなくて、病院の支給を受け、やがて孤りで病院で死んで行く者さえあるとも話してくれた。私の内心はいよいよ複雑となり、せめてもう家族の苦しみの今日以上かさまぬよう希われるのみであった。
 転室してから三か月もすると私は歩行を習い始めた。小谷さんが階下の庭の芝生に近い臥室に連れ出してくれた日、きわめて自然に私に云った。外人 出会い
「もう私がお附添いしなくても、およろしいほどでございますわ」
 こう云われてみると私はさびしくなり、小谷さんが来なくなる一人のベッドが悲しまれた。
 だが回復を進めるためには、少しずつ病躯を運動に馴らす必要もあった。
「でも私だけになっても、時々来て下さいね」私は心をこめて頼んだ。
 伝道を避けるらしく私が見られた時の軽い冷笑などは、慇懃な小谷さんの平生には微塵もなかった。ただもう親切な良い娘さんであった。
 私は秋芝の黄味がかった庭の方まで歩いてみて、陽だまりの香ばしい草の上に、草履をぬぎ足袋をとって足の裏をじかにあてたりした。ここまで回復したよろこびは、ただもう空に手をあげて呼びかけたい単純な心であった。
 小谷さんは無心なさまで、私の傍らで讃美歌を歌っていた。
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2012/6/6

これ  

 私の症状もその後大体におちついてくるようで、夜と共に眠り、朝は一定の時間に眼覚める快い日も得られるようになった。眠りの時が少しでも深く安らかになれば、回復に向うそれがひとつの徴であった。やまいの面白くない時には真夜の眠りの時に、自分の呻きを自分で聴き、体の狂いを噛みわけ、血肉を涸らす秒刻を知るものであった。病苦にもそれを忘却に包むひと時がなかったが、最も険悪な昏睡にしかのがれ道はまずなかった。
 そういう夜々も送って来たあとで、安眠のあとの朝ほど私にありがたく思われる時もなかった。指折り数えて七時間も眠ったとすれば、円滑な生命の回転がそれだけ蔽れて潜み、健康な知覚に眠覚ましてくれるのであった。生とも死とも別な安らかな眠りの境いのえられたことは、病者にとってはたとえば地震におしつぶされる瞬間にも飛び起きられる力の蓄積に相当するものであった。
 夜八時の消灯から素直に眠りにはいられた翌朝は、ぽかりと夜明けに眼が覚めた。まだ地上は闇で、空だけが銀の薄光を放っていた。開放した窓からは洗うような大気が私の顔の辺に吹き通い、殊に晩秋の晨のひそやかな暁の気は、私の追い詰められたこの最後の生涯にほかならぬ、ひとつのベッドに沁み渡った。
 南に面《おもて》をむけて瞳をあげると、東方に寄った空がまず透明な淡い白光を現わし、水色を帯び、ややしてあわい青緑色に澄み光って来る。その黎明は、緩やかに移ろい、やがて緋のうす色が射しはじめる。棚びく雲があれば雲のふちを色どり、金粉をはじく金色の征矢を放ち、東天は俄かに青緑の空と、くれないの旭光とで絢爛を現出するのであった。だが夜明けとなれば既に暁闇と旭光の織り出す絢爛は消え、一気に一音の合図と一緒かのように、視界は隅なき明るさに明け放たれるのであった。
 勤勉な小谷さんはたいていまだ東天の美しい時分に私のベッドに出勤してパチリと電灯をつけた。きびきびした順序で私にまず歯磨粉をつけた楊子を与え、私が歯をこすっている間にはコップを持ち添えており、済めば床頭台の上の含嗽用のものを清め、私の髪を二つに分けて編み、熱い湯で顔や手首、腕を拭き清めた。
 小谷さんは夜が明け放れると、また電灯のスイッチをパチンと閉め、私の寝具をきちんと正し、便器を清め、床を拭き、やがてくまなく調うた床で私に食事させ、さらにあと片づけするまで一刻も小止みなく、見る眼にも感に堪えるほどこまめに働いた。
 叮、使徒小谷さん、私はかの女に見せぬ眼をうるませた。あなたはお仕合せですよ、小谷さんのような良い方に附いていただいて、とはたの人からも云われ、自分でもあちこちできつい附添婦におこられている病人の我儘話なども耳にいれて、小谷さんに附いてもらった仕合せを感ずるのであった。
 お太鼓を胸高に結んだ小柄な小谷さんの後姿は初々しく、朝の挨拶にも、消灯して帰る挨拶にも両手を揃えて女学生のようなお辞儀をする小谷さんは、院長さんや医師たちの良家にも出入する行儀正しさが、身についていた。挙動が粗野で、口の利きかたも乱暴な、老いた頑くなの附添婦にさえ顔色を窺っている病人もあるのに、小谷さんには私は感謝もしきれないと思った。
「お母さんにはずっと小谷さんが附いていてくれて、よかったですね」
 息子も娘も見舞に来た時折りには、これを云った。
「ところが困ることが一つだけあるんでね」
「なんです、お母さん」息子はふしぎそうにしてたずねた。
「小谷さんは信者なんでねえ」
「たいへん良いことじゃありませんか」
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