(無題)

2012/12/18 
さて父・叔父などが集つてしらべると、下褄に恨み言が発見せられ、其末に「四条河原の細工夫婦が志、たはたの介 兄弟が情のほど、如何で忘れ申すべき。まんそうくち (公事)を許してたべ」とあつた。
そこで、雲井 前は簀巻にして川に沈め、月小夜は引き廻しの末、いなせが淵 に投げ込んだ。かの滝に来て見ると、浮んで居た骸が沈んで見えない。祈りをあげると黒雲が北方に降りて、十六丈の大蛇が、愛護の死骸を背に乗せて現れた。清平が池に入ると、阿闍梨も、弟子共も、皆続いて身を投げる。穴生の姥も後悔して、身を投げる。たはたの介 ・手じろの猿 も、すべて空しくなつてしまふ。細工夫婦は、唐崎の松を愛護の形見として、其処から湖水に這入つた。其時死んだ者、上下百八人とある。
大僧正が聞いて、愛護を山王権現と斎うた。四月に申の日が二
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安全用品製造について思う

2012/12/3 
そして第三に、それが本来感覚であって、その限りでは元来はロゴス的のもの(言葉・概念)ではなかったことから、一切の天才的(カントに従って非科学的)美的感官技術のものである諸芸術の感覚をも、統一し得る共通物だったのである。――かくて芸術乃至文学と科学とはコンジェニアルなものであることが示されるのである。
(一九三二)
常識・合理主義・弁証法
 近来、常識というものに多少反省を加えているものは杉山平助だろう。彼は世間からよく云われるように、自分を一個の常識家と自覚してかかって物事を判断するので、彼の評論は割合包括的で又通用性に富むことになるのだ。彼は常識以上とか常識以下とかいうことを口にして、とに角常識水準とも云うべき価値の標尺を持ち出している。夫は相当高く買って良いポーズだと思う。だが、それでは常識とはどういうものか、と正面から切り出すと、常識に就いての彼の見解は案外常識的なものに止まっているのではないかと考えられる。私は常識というものの分析をすることが何より大事だと思っている。
 今日の社会の通念になっている意味での所謂常識がすべて今云ったように、決して単純な判り切ったものではなく、従って決して単に常識的には分析出来ないものだが、併し之まで、世界の思想史の上で常識を問題にしたものも亦決して珍らしくはないので、その結果、歴史的には、或いは寧ろ伝統的にはと云った方がいいかも知れないが、常識に就いての一定の伝統的 な概念が、他方に存在しているのである。之はわが国などに於て所謂常識として通念されているものとは表面上別なものではあるが、当然なことながら根本的には夫と連絡のあるもので、従って所謂常識なるものの分析には歴史的な手懸りになれるものなのである。
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