2015/6/26

秀歌(51)蒔田さくら子31首より  秀歌読みましょう

蒔田さくら子さんは、東京生まれの歌人で「短歌人」の重鎮。今85歳ぐらいか、去年現代短歌大賞を受賞されて、もう選者や編集委員は引いておられるけれど、お歌は力強く私はいつも感銘を受ける。いっときは蒔田さんのお歌を読むと泣きそうな気持になることが多くて、それは悲しいと言うのではなく、感極まるようなものだった。
「短歌人」の方たちは自由に活動できると聞くが、それでも「短歌人」風というものがあるような気がする。蒔田さんのお歌も日常のふとした気付きを詠う事が多いのだが、どこかに鋭い目がぴかっと光ったような歌に出逢う。
今回は去年の「角川短歌」9月号の巻頭31首から七首を引く。

「草におく露」
のこる色なきにしばらく微熱あるやうにうるみぬ虹消えし空

罪なきに皆がら頭を垂れ大輪のダチュラ咲けりといたみつつ過ぐ

乗りたくて後先みずにバスに乗るいずれこの世のどこかに着かむ

荒ぶる神過ぎたる街に置き去りのやぶれかぶれのビニールの傘

亡き人といふは凡庸さりながら詣づるかたへに黄揚羽 ふいに

青ざかな藍の背のいろすずしきを締め鯖などとむごき名によぶ

親の老いに向きあふ歌の確かなる手応へ我にはかかる父母なし。

二首目、花を詠って自然な比喩とそれに対する「痛みつつ過ぐ」心のありか。三首目のまだこの世の「どこか」につけばいいと思う死なない心。八十の時より確実に終末を考えているのではと見えながらも、どうでもいいとサバサバしたところがある。そこが蒔田さんのお歌に野太いものを付しているのではなかろうか。それでいて全体に厳しいだけでない、覆うような優しさも備えている方ではないかと思う。
七首目の親の歌の後に、早くに亡くなった母君と再婚した父上の歌が続いてまた親という物のない寄る辺なさを詠っている。
近頃学生さんのような若い方が、文語旧仮名の歌を詠いたがるようだが、お手本として蒔田さんのお歌を読んで勉強して欲しいと思う。
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2015/6/30  8:43

投稿者:多香子

拍手コメントにお歌を下さった方、お名前がありませんでしたので何ともなりません。拍手コメントは外に出ませんので記事の下のコメント欄から書いてくださるといいと思います。

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