2017/6/9

「昔の同人誌」  

先月「中井英夫と寺山修司展」という小さな展示を見てきた。ツイッターで泳二さんが流してくれた情報にふれて、会場が家から歩いて二分の「古書会館」だと知ったからだった。その前に「中井英夫」の名を師の中静氏から昔の短歌賞は中井がいたからしっかりしたものだった、という回顧を聞いていたから(名編集者への)興味と言うより恐れを抱きながら、ちらっと見てきた。展示は寺山の生原稿や中井の「短歌研究」「角川短歌」の割り付け、中条ふみ子の書簡などで「乳房喪失」の原稿は私にはやはりつらかった。

寺山が短歌研究(今の新人賞)で中井に見いだされたのが昭和29年、私が大学に入ったのが39年だから、だいぶん古い話だけど、ワープロもプリンターもない時代の編集原稿を見ると懐かしさに襲われてくる。私は女子校から共学の大学に入り、その頃「短歌」も詠んだけれど「小説」も書いていた。(ほんの趣味的な物だったけど)私の入った大学には「短歌」のたの字もなくて、「詩」と「小説」の文芸サークルに入るしかなかった。そこでは「○○文学」という同人誌のような物を出していた。

大学が汚い時代で「部室」と呼ばれるものもバラックの様な長屋で、私は(お嬢さん学校から)大人の世界に踏み込んだ気がしたものだ。勝手に書いた「小説」を木のテーブルの上に放っておくと、だれかしらが読んで感想をくれる。大抵はひどく突っ込まれる。そして年に二回の雑誌の選考会に出していいよと言われると、その原稿を預け執行部の人達が「選考会」を開いて掲載を決めるのだった。

編集の方は、やっぱり部室に居ると先輩が「編集やりたいか?」といって、ハイと言うと教えてくれる。教本みたいなものも少し読んだけれど、大体は実地で前号の一部の上につぎの号の割り付けをしていく。原稿用紙の字数を数えて行数を規定し、多すぎると少しずつ削る。今は活字ではないけれど校正のやり方など大して変わらないと思う。そうやって教わったことが卒業して出版社に勤めた人たちには役に立ったことだろう。
今も「結社誌」や「同人誌」などはそんなやり方でやっているのではないだろうか。ネット上で「結社」と「同人誌」の違いなど論争しているけれど私にも良くは分らない。小説と違って「短歌」には「結社」設立者の理念継承ということもあり、その理念と離れてしまったと思う人々が外へ出て別の結社をつくった歴史もある。

今手元に残った「〇〇文学」の冊子を見ると100円となっていて、現在との比較は出来ないが、妥当な値段だった気がする。平凡パンチが創刊の時代で50円だった。サークルの会費は忘れてしまったが、月会費を払い会誌が(年二回が後の方で苦しくなって年一回になった気がする)出来ると普通会員一冊、掲載された人は五冊だったか十冊だかの分を払って、それを手売りする形であった。大学祭などで売ることはあっても今のように文フリとか通販もない、ツイッター拡散もない時代には、同人誌と言うのは皆がお金を出し合って作っていた物だった。
5



コメントを書く


名前
メールアドレス
コメント本文(1000文字まで)
URL




teacup.ブログ “AutoPage”
AutoPage最新お知らせ