(無題)  

その外には一人も必要がありません。」
 夫人は小翠のいうなりになって、元豊に頼んでその亭園の中で静養さすことにし、毎日食物を送ってよこした。
 小翠はいつも元豊に、別に結婚せよと勧めたが、元豊は承知しなかった。
 一年あまりして小翠の容貌や音声がだんだん変って来た。元豊はいつか画かした小翠の像を出して見くらべた。が、別の人のようであるからひどく怪しんだ。女はいった。
「私は今と昔とどうなっているのです。」
 元豊はいった。
「今も美しいことは美しいが、昔に較べると及ばないようだな。」
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レッテルについて思う  

処で他方、弁証法的唯物論(それが本当の唯物論だと云っておいた)は、世界観としては、事実上プロレタリアの世界観であり、又益々そうなりつつあると見られる。で今の場合、唯物論的な文学(仮にそう名づけておこう)が、プロレタリアの生活意識から出発するということは至極あたり前の事実なのである。世界観乃至生活意識が、現実の忠実な反映である以上、プロレタリアのものであるとかないとかは本質的な問題でない、と考える人間もいるかも知れないが、それは、今の場合生きた事実の代りに可能的な原理をかつぎ出す三百代言式な横槍に過ぎない。
処で、世界観は方法との関連に於て初めて世界観であることが出来ると云った、そのことは同じく方法の側に就いても真理である。二つのものは切り離しては死んで了う。世界観と方法とがどう異るかはすでに触れておいたが、今は二つの必然的な結び付きにも人々の注意を喚起しなければならぬ。で、唯物論(弁証法的唯物論)がプロレタリアの世界観であったとすれば、之に必然的に連関している処のプロレタリアの文学制作の方法も亦、唯物論でなくてはならぬ。唯物論的な制作方法――それがどんな内容を持つかは後にして――は唯一の真の文学創作方法の筈だから、それがプロレタリアのものであるとか無いとかは根本的問題でない、というような結論へ導く処の一切の云い方は、ここでも亦、本当の生きた新鮮な真理を云い表わし得るものはプロレタリアなのだという一つの著しい歴史的事実を、云い忘れたものだと云う外はない。
 プロレタリアの創作方法、それは弁証法的唯物論的、即ち「唯物弁証法的」制作方法と同意義でなくてはならぬが、それがプロレタリアの実践活動の一部分にぞくする限り(一般に文学乃至、芸術の制作は、理論乃至科学の制作と同じに、それ自身一つの実践であり又実践活動を媒介として初めて成り立つことが出来るのだが)、プロレタリアの政治活動の歴史的諸段階に相応する広義の政治的綱要に対応して、内容が決って来る必要がある。唯物弁証法的なプロレタリア文学の制作方法の内容は、従って、この政治的情勢に対応する処の芸術的形象化の夫々の方針として、具体的に指定され、又それ自身の必然的な進歩の道に従って、転化して行かねばならぬ。
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