(無題)  

よつぽど歩かなければならないんでございませう?」
「さうですね、二キロも上ればいゝでせうね。なんでもありませんよ。道がわるいつて云ふのは、道を歩かうとするからで、草のなかや石ころの上を歩くつもりなら、決して困難なコースぢやありません。大沼先生は春さきにもう一度来たいつておつしやつてます。標本を作るのには、季節の制限があるもんですから……」
「あら、そのおシヤツお着替へになりません? お着替お持ちでいらつしやいませう?」
「いや、こんなの、平気ですよ。一日か二日のつもりでしたから……」
 そんな問答をしてゐると、隣の部屋から、
「おーい、幾島君……誰と話をしてるんだ? さ、風呂へ一緒にはひらう」
 と、声につゞいて、浴衣がけに手拭をぶらさげた大沼博士が、つかつかとはひつて来た。
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胸が全くないについて語ってみます  

前の日、ホームズは終日眉根をよせた顔を首垂 れて、強い黒煙草をパイプにつめかえつめかえ部屋の中を歩き廻ってばかりいて、私が何を話しかけても何を訊ねても石のように黙りこくっていた。あらゆる新聞の新らしい版が出るごとに、いちいち配達所から届けられたが、それすらちょっと眼を通すだけですぐに部屋の隅へ投げすてた。しかも、彼が一言も口をきかないにも拘らず、彼の頭脳 の中で考えられていることは、私にはよく分っていた。いま彼の推理力と太刀打ちの出来る問題といえばただ一つ、ウェセックス賞杯 争覇戦出場の名馬の奇怪なる失踪と、その調馬師の惨殺された事件があるのみだ。だから彼が突然、その悲劇の現場 へ行くといい出したことは、私にとっては予期していたことでありまた希望していたことでもあったのだ。
「差支えがなければ僕も行ってみたいんだがね」と、私はいった。
「君に来てもらえれば大変有難いんだが。この事件は極めて特異なものだと思われる節があるから、君にしたって行くことはまんざらむだにはなるまいと思う。今からパディントン停車場へ行けば、ちょうど汽車の時間にいいだろう。委 しいことは途々 話すとして、すまないが君のあの上等の双眼鏡を持って来てくれたまえ」
 それから一時間あまりの後には、私はエクスタ行の一等車の一隅に腰かけていた。
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