2013/5/7

育ちの良さ  

昔読んだ小説に、こういうセリフがあった。
「したたかな奴さ。ひょっとしたら、いい家の出なのかもしれないな」
この通りではないが、意味としては「いい家の出の人はしたたかである」ということに間違いはない。もちろん、これは小説の登場人物が自分の考え方としてそう言っただけであって、本当にそうかどうかは不明である。

このフレーズを折に触れて思い出すのだが、「育ちが良い」というのはどういう意味かということだ。普通、「育ちが良い」=「苦労知らず」=「打たれ弱い、世間常識に疎い、甘え」と直結して考えてしまうと思うが、本当にそうかということである。名家の馬鹿息子というようなステレオタイプ(前にステロタイプと書いて「間違っている」と言われた。間違ってないよ。30年ばかり古いだけだ)が小説やマンガに出てくるが、あれって本当か、いや全部そうかという疑問だ。

確かに、そういう甘えたのはいるだろう。名家というより、金がある家の子供は甘やかされる上、大抵のことは思い通りになるので、その状態に適応して成長してしまえば嫌でもそうなるのは判る。だが、実際には「いい家」というのは違うのではないかという気がしてきたのである。

発言小町を読んでいて、「コネで入社したがおっとりしているので仕事がいつまでたっても出来ず、先輩に叱られて早退したら、その先輩は退職してしまった」というような相談? があった。もちろん、回答は非難の嵐であった。曰く「おっとりしているのではなくて愚図だ」「先輩が可哀想」「叱られたくらいで早退するなんて」という、実にもっともな指摘で、かなりの人のストレス解消につながったのではないかと思う。しかも第二段として、「私は社長の娘でおっとりしていて……」とか書いて、さらに怒号にさらされていた。

普通だったら、あれだけ叩かれたら逃げてしまう。私だってほっかむりする。それくらい非道い非難の山だったのだが、なんとそのトピ主は言われたことをきちんと読み、自分なりの対応(先輩に謝罪する等)を実行し、その報告を堂々と掲載してきたのである。これには度肝を抜かれた。そして、その態度が読者に受け入れられたのか、今度は一変して「あなたは偉い」「がんばったね」「これからです」という祝福のコメントに変わったのであった。私はそのとき思ったのである。これが「育ちの良さ」ではないか、と。

冷静に見てみると、このトピ主はあいかわらず愚図で、自分のせいで有能な社員を辞職させ、しかもコネ入社のまま居残っているわけである。そして将来的にも、それを改善もしくは変更させようとする意図はない。(愚図がそんなに急にできるようになるはずもないし、退社もできないだろう)
にもかかわらず、この人は正々堂々と対応するだけで、周りを味方に変えてしまったのである。そういうことができるのが、多分「育ちの良さ」なのだ。

まず、逃げない。そして人の顔色を気にしない。マイペースで、自分の信ずる通りに堂々と振る舞う。これって書くとカッコいいけど、実は「朕は偉いのだからそちらのような下々に何言われようが平気じゃ」と思っているわけで、ただそれをストレートに出さないのである。「武士は食わねど高楊枝」とはちょっと違うが、内心と行動をわけて演じきれる。あるいは、ひょっとしたら演じているのではなくて本性なのかもしれない。それはますます「育ちが良い」。しかも、ただしたたかなだけではなく、高貴なしたたかさである。

この態度、本人の適性もあるけど、やはり環境が大事であろう。まっすぐ素直に育ってないと駄目だし、甘やかされても駄目だ。そういうことができるのが「よい家」なのだろうなあ。庶民には無理とは言わないが難しいだろう。生活のためには人に頭を下げ、耐え難きを耐え、忍びがたきを忍び、時には嘘や方便にまみれて生きていくのが庶民だから。
http://www.un-japan.com/
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タグ: 育ち

2013/4/17

キャラ立ち  日記

アニメキャラに熱中する人の気持ちが、何となく判る気がするわけである。

いや、私だってアニメへの熱中は人後に落ちることはないのだが、世間一般の基準で考えてみると「そんな架空の作られた二次元存在に対してどうしてそこまで思いこめるのか」というような疑問もあるのだろう。アイドルやスターと違って、生身を持っていないのに、というわけである。

「萌え萌えジャパン」では、それを「情報の欠落の補填行為」というような表現で定義した。つまり生身がないからこそその存在に近づくための脳内補填が強化され、それが萌えにつながるのだと、いやそれ自体が萌えの正体だと。
実に説得力のある説で、多分正しいのだが、しかしそこまでいかなくてももっと簡単に説明できそうな気がする。

私だけじゃなくて現代人はみんな似たような状況だろうが、どうも人と接していても生身を感じることが少なくなっている。携帯でつながっている若い連中は、さらに強固だろう。チューリングテストを持ち出すまでもなく、スピーカーの向こうにいるモノが本当に人間なのか判らなくなってきているのだ。いや、面と向かって話していても、相手の人格があまり感じられない。こっちもそうだろうが、様式化されたやりとりを、プロトコルに従ってこなしているだけという気がするのだ。

実は、会社でそういう感覚になっている。会社だけではないが、仕事しているとそれが非常に顕著に感じられる。仕事上必要な情報だけを、状況判断をしつつやりとりしているだけで、極端に言うと同僚の個人情報がまったく出てこない。
古い人たちは、それでも宴会の席などで家庭の事情を尋ねたりしているが、今の中年以下の年代ではそういうこともなくなっている気がする。

で、どうなるかというと、要するにキャラが立たないのである。机を並べて仕事してたり、共同作業しているのに仕事に必要な情報しか持っていなくて、仕事以外で相手が何をしてるのか判らない。相手の性格も、仕事を通して判ったつもりになっているのだが、私だってそうだが仕事中は一種の自動反応モードとなっているので極めて単純化された人格にしか見えない。このボタンを押すとこうなる、ということが判っているだけだ。
それでも、仕事には何の支障もないのである。

そういうのに比べたらアニメのキャラの方がよっぽど立っている。喜怒哀楽が判りやすいし、何より気をつかわなくてもいい。本音で理解できる相手といってもいいかもしれない。もちろん、コミュニケーションはできないしこっちを認識しているわけでもないのだが。
しかし、それを言い出したらリアルワールドだってもう似たようなものなのだ。家族だって仲間だって、本当にコミュニケーションできているかどうか怪しい。プロトコルに従ってやりとりしていても、へたするとアニメキャラより存在感がないんじゃないだろうか。

というようなことを、つい考えてしまった。いや、アニメを観る言い訳というわけではないんだけど。
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タグ: 日記 個人 日常



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