『ジョージ・ポットマンの平成史』の「女装史」を見て以来、私の中では大きな発見があった。
それによれば女装は古来霊的なものを身にまとう神聖な行為とされおり、近代に入るまで女装に現代のようなマイナスなイメージはついていなかったのだという。だが欧米化と近代化の中で諸外国の目を気にした政府によって、女装は一時犯罪として明文化された。その後反対が大きく再び合法となるものの一度ついたイメージはぬぐえず、現代でもせいぜいおねえキャラか芸人のギャグくらいでしか一般社会では認められていないのである。
一方で『平成史』で紹介されたように古事記の熊襲討伐など、女装して普段とは違う力を得たり、各地の祭りで男性が化粧をしたりする風習は残っている。また歌舞伎の女形のように、伝統文化の中でその系譜が受け継がれてきたものもあるだろう。逆に宝塚のように女性が男装する例もある。そもそもなぜ異性の格好をすることが大きな文化として根付いているのだろうか。
例えば趣味で女装する人の場合、その人は女性への憧れだけで女装しているのだろうか?もちろんその部分も大きいだろう。しかし逆にそれは自らの性に対する「コレジャナイ感」、違和感があるように思う。更に突き詰めればジェンダー(社会的な性、男らしさ、女らしさ)に対する違和感だろう。
おそらくだが彼ら、彼女らは自分のセックス(生物的な性)に違和感を感じる人は少ない(性同一性障害の方を除いて)のではないだろうか。社会が自分に押し付けてくるもの、要求するものが何か違うと感じ、ある意味「変身」した後の自分にこそ本当の姿があると感じられるのかもしれない。
変身というと現代だとコスプレは正にその典型のように思う。彼らはただ単にアニメのキャラなどに変身できればいいわけではなく、それを通して自分のキャラ(普段隠している本来の自分のもの)を表現しているのではないだろうか。
以前プリキュアのキャラのレイヤーのまこぴーさんの活動を拝見して、これは自己実現として最強なんじゃないかと感じた。ある意味普段の自分から完全に離れた存在に、正に「変身」しているのだ。そしてそれが多くの人に支持されているのも、実は多くの人が心の底で「性や普段の自分に囚われない姿になりたい」と感じているのではないか、と思わずにはいられなかった。
『平成史』の中でもここ最近の男の娘ブームなどが紹介されていたが、BLなども含めて近年は性差やそれに対するタブー視が薄れてきているように感じる。だがそもそも、それらを完全に分離しようなどという考えこそがおかしかったとは考えられないだろうか。
確かに男女に能力的な向き不向きはあるだろう(男性には空間把握能力、女性には色の識別能力といったように)し、それぞれの性にしかできないこと、表現できないものはあるだろう。
ただそれとは関係のない、社会の発展の中で形作られてきたジェンダー(男らしさ、女らしさ)に関しては、自由に取り外せることが前提となっていなければ私たちを束縛しかねないと思う。
今後の社会がどうなっていくのか、私は少し楽観的ではあるが希望は持っている。