ゼロです。ゼロは全て零から始まる中のゼロです。

2012/5/7

论“马克思”  

不知道现在高中生还学不学马克思主义,毛泽东思想,邓小平理论。

刚上完经济学的课,那糟老头讲话口齿不清毫无重点,但为了单位而不得不使劲儿地听。

对这节课上所讲的内容我表示非常地汗颜。

我从小学就开始学的马克思主义在他眼里根本就是不算什么,也没有什么多大的成就的样子。只有在讲英国的经济学者时他才会口沫横飞。据悉:马克思所著的资本论,只有第一卷是他写的,也是在他生前所发表的。而他死后所出版的第二卷和第三卷是恩格斯代笔,他只写了草纲,而且据说马克思所著的资本论和恩格斯之后发表的资本论的内容并不一致,之后的资本论中的内容可以说几乎都是恩格斯的想法。确实在马克思生前也有和恩格斯讨论过资本论之后的内容,马克思也是有写了草纲(草稿)的,但他具体写了多少,而恩格斯又添笔了多少这是根本无法考证的。

在这样一种情况下我学了18年的马克思主义,我表示真的很无语。表示对中国的教育很无语。这又另我想起中学时,我们在学社会主义和资本主义的时候,我问我们的政治老师什么是社会主义什么是资本主义,还记得老师的回答是这样的:社会主义就是中国,资本注意就是美国,英国什么的。那时我只知道如果考试时出现了这种问题,我就会像老师告诉我的那么回答。从没有计较过老师说的到底是什么意思。

而直到到我出了国,我才知道什么是社会主义,什么是资本主义。更直到我感觉到了那糟老头对马克思的不屑,我才真正意识到对中国教育以及中国政治的一种无力地挫败感;直到我有了这种挫败感,我才有一种想抽我中学政治老师的欲望。

好吧,不怪遭老头不看好我学了18年的马克思,要怪就只怪我们还是马克思主义所领导下的社会主义吧。
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2012/3/4

(無題)  


云南N日游归来,这些天把所有能坐的交通工具都坐了个遍,最后终于…。通过这次旅行,深刻体会到有必要把自己的家乡北京重新好好的逛逛和了解,希望以后有机会能为各种“朋友”们做导游。[握拳]

旅途中,印象最深的是一个大伯,他是和自己的儿子随团出来旅游的,我们也仅仅是几面之缘,几次而谈,却特别地能感觉到这个人是个好人。也许是因为他曾指着自己的儿子和我说“他不会说话”的缘故所以只有我才感觉到的?可又不这么认为,大家吃饭时他有什么都拿出来和大家一起吃,大家都是不认识的;大伯得有60岁左右了,每次抽完烟后都会咳嗽,有一次我就说大伯你不要吸烟了,对身体不好,他就把刚还没吸两口的烟马上就用手掐掉了,快得让我当时就愣在那里了,事后被母上说道多管闲事,然后就觉得自己是不是做错了什么…

也许再过些日子马上就会忘记曾经在旅途中碰到过大伯这么一个人,只记得自己曾经去过云南…可是今后却不想再忘记了,想把自己感受到的温暖,去还给对方,想把自己曾经接触好,也让别人能去感受到,只是希望好人能有好报…

都不知道为什么会有这样的心境…orz

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2012/1/12

吉田松陰(よしだ しょういん)  

 幕末(注1)、維新(注2)期は、動乱の時期でいろいろな人々がいろいろな考えを持っていた。長い間の鎖国(注3)のため、日本が世界の動きに取り残されるのを恐れたためなのか、外からの圧力を防ぎ切れないのではないかという心配があったからなのか、幕府の力が弱くなってきたせいなのか、とにかく、多くの人々がそれぞれ、まじめに日本の将来について考え、その考えに従って行動しているのである。さまざまな動きが見られたが、こういう動きは主に藩単位で行われた。中でも最も強い藩の一つに長州藩(注4)があり、高杉晋作、木戸孝允(注5)、山県有朋(注6)、伊藤博文(注7)などの歴史の教科書に必ず出てくる幕末、維新期の指導者たちが、長州藩からたくさん出ている。この人たちは、みんな同じような考えを持っていたわけではないが、同じ藩出身という以外に、もう一つの共通点があった。それは、彼らが、吉田松陰(吉田寅次郎ともいった)に教えを受けたということであった。松陰はこういう彼の弟子たちを通して、維新を導き出した人と言えるかもしれない。そんなに影響力のあった松陰とは、一体どんな人だったのであろう。
 
 ロバート•ルイス•スティーブンソン(1850-1894)は、イギリスの作家で、彼の作品『宝島』は今日でもよく知られているが、“Familiar Studies of Men and Books”という本の中で、「Yoshida-Torajiro」を取り上げている。ビクトル•ユーゴー、ウォールト•ホイットマン、ヘンリー•ソローなどと同じように、松陰にその本の一章をさいているのである。その章の初めの所で、スティーブンソンは次のように言っている。

 吉田寅次郎という名前はイギリス人の読者には知られていないかもしれないがガリバルディやジョン•ブラウンの名前と同じように、誰でも知っている言葉になるであろう。近いうちに、吉田がいかに日本の維新に影響力を持っていたかということを、もっと詳しく知る機会があると思う。

 海の向こうのスティーブンソンまでも感心させた松陰の29年間の短い一生の中で、一番よく知られているエピソードは、真夜中の荒波の中を友人と二人、小船でペリー(注8)の軍艦に乗りつけ、アメリカへ密航しようとしたことである。そのところ、幕府は鎖国政策を取っていたから、外国と係わりを持つことは一切禁止されていた。見つかったら、本人ばかりでなく家族や友人まで罰せられても不思議ではなかった。19世紀の前半、1840年ごろ、日本のお隣の中国はその当時清国といったが、アヘン戦争でイギリスに負けてしまっている。この事件で一番外国の恐ろしさを思い知らされたのは日本の西洋学者たちで、彼らは、日本も清国と同じような目にあうのではなかろうかと心配した。松陰に最も影響を与えたのは、「相手を知ることによって自分を知ることができる」と考え佐久間象山という西洋学者であった。象山は、西洋のことを知ろうと、一生懸命書物を読みあさっていた。それに比べて、松陰は書物だけから得られる知識は限られていると考えて、思い切ったことを命がけでやってのけた行動派であった。

 松陰は、ペリーが初めて日本にやって来た時から、海外で勉強したいと思っていたが、準備が間に合わず、次はロシアの船が長崎に来ていると聞いて急いで駆けつけたが、ちょうど船が出た後だった。そこで、ペリーが2度目(1854)に日本にやって来た時、今度こそはと、友達と二人でペリーの黒船(注9)に乗りつけ、いっしょにアメリカに連れて行ってくれるように頼んだのである。ただ西洋について知りたい一心からにほかならなかった。しかし、ペリー側は、幕府との交渉の最中で、日米関係が悪くならないようにと思って断っている。残念ながら、松陰は命がけの計画が失敗に終わり、翌日幕府に自首したが、ペリーは、密航の罪で松陰たちが処罰されると聞いて、罪を軽くしてくれるように幕府に頼んでくれたと言われる。その当時、西洋のことについて知っている人は、ほとんどいなかった。ペリーの船に招かれた幕府の役人たちは、ワインをすすめられ、西洋人は人間の生き血までのかと、気が遠くなるような思いをしたという。また、彼らはバターを髪の毛につけるための油だと思い、口にした途端、吐き出している。そういう状況の中を、全く何も分からない世界に向けて、松陰はペリーの船に乗り込んで行ったのである。そのまま、ペリーが松陰をアメリカに連れて行ってくれていたら、歴史が変わっていたかもしれない。

 松陰は小さい時から、まれに見る秀才で、もう12、3歳のころから、長州藩や藩士の前で講義をしているほどである。思想家として書き残したものはたくさんあるが、29歳の若さで処刑されてしまったため、その自分の思想を体系的にはっきり打ち出すところまでは、いかなかったらしい。しかしながら、人徳のある教育者であったということは、誰もが認める。獄(注10)に入れられていた時も、同じ獄中の人殺しや強盗などが、みんな松陰を慕って改心したという。

 松陰は許されて獄を出てから、松下村塾(注11)で、上に述べた維新の指導者たちを教育している。この人たちは主に、天皇を敬い、外国との交渉をよく思わない人々であった。言い換えれば、幕府の政策に反対する人々であった。松陰も、幕府が安政5年(1858年)に西洋の五つの国々と結んだ条約(注12)に反対した。その条約は、天皇の許可もなしに幕府が勝手に結んだ不平等条約で、日本の立場を悪くするものであったからである。反幕の人々の動きを恐れた幕府は、そういう動きをおさえようとして、安政の大獄(注13)と呼ばれる大弾圧を1858年に行い、吉田松陰も29歳の若さで死刑を受けた。

 山口県の萩に行くと、松陰が寝起きしていたという小さな部屋を見ることができる。松陰は死ぬまで、皇居のある方に足を向けて休むことはなかったのだそうだ。


注1:幕末 江戸幕府の終わりの頃(1853〜1869)
詳細:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%95%E6%9C%AB
補充:江戸幕府 17世紀から19世紀にわたる(1603〜1867)265年間の江戸時代のことを指す。

注2:明治維新(めいじいしん) 江戸幕府から明治政府へ、つまり江戸幕府に対する倒幕運動、及び天皇親政体制の転換とそれに伴う一連の改革 
詳細:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E6%B2%BB%E7%B6%AD%E6%96%B0

注3:鎖国 江戸幕府(徳川幕府とも言える)が日本人の海外交通を禁止し、外交・貿易を制限した対外政策である。(つまり日本の江戸時代に、日本国内はほかの国との貿易などの交流は一切なし、自給自足の状態である。)
詳細:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8E%96%E5%9B%BD

注4:長州藩 今の日本にある山口県萩市のところを指す。(九州と本州の間にあるところ)

注5:木戸孝允(きどた かよし) 幕末期、桂 小五郎(かつら こごろう)と改名し、尊王攘夷派の中心人物である。
補充:尊王(派) 日本の天皇をきわめて敬う人々
   攘夷(派) 外国との交渉をよく思わない人々

注6:山県有朋(やまがた ありとも) 高杉晋作が創設した奇兵隊に入って頭角を現し、後に奇兵隊の軍監となる。明治政府では軍政家として手腕をふるい日本陸軍の基礎を築いて「国軍の父」とも称されるようになった。
詳細:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E7%B8%A3%E6%9C%89%E6%9C%8B

注7:伊藤博文(いとう ひろぶみ) アジア最初の立憲体制[1]の生みの親であり、またその立憲体制の上で政治家として活躍した最初の議会政治家として、現代に至るまで大変高い評価をされている。中国のハルビンで朝鮮独立運動家の安重根によって暗殺されたという。
詳細:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E8%97%A4%E5%8D%9A%E6%96%87

注8:マシュー・カルブレイス・ペリー(Matthew Calbraith Perry)、アメリカ海軍の軍人。1853年に日本の江戸時代に艦隊を率いて鎖国をしていた日本へ来航し、開国させたことで知られる。

注9:黒船(くろふね) 幕末(1853年)に来航したペリーの艦隊を黒船と呼ばれる。

注10:獄 (野山の獄とも言える。)今の刑務所に当たる。日本は当時鎖国政策を取っているため、外国に行くのは禁止されていた。吉田松陰は1854年にペリーの船に乗れず、翌日幕府に自首し、1年間ぐらい投獄された。

注11:松下村塾 1855年に吉田松陰は許されて獄を出てから、長州藩で講義した私塾である。当時、高杉晋作、木戸孝允、山県有朋、伊藤博文などの人たちが吉田松陰に教えを受けた。

注12:条約 1858年日米修好通商条約(にちべいしゅうこうつうしょうじょうやく)のことを指す。主な内容は日本に不利の領事裁判権と関税自主権なしのことであった。

注13:安政の大獄 安政5年(1858年)から安政6年(1859年)にかけて、江戸幕府が行なった弾圧である。当初は戊午の大獄(つちのえうまのたいごく、ぼごのたいごく)とも呼ばれていた。
         江戸幕府の大老井伊直弼(当時権力を持つ人)や老中間部詮勝らは、勅許を得ないまま日米修好通商条約に調印し、また将軍継嗣を徳川家茂に決定した。安政の大獄とは、これらの諸策に反対する者たちを弾圧した事件である。弾圧されたのは尊皇攘夷や一橋派の大名・公卿・志士(活動家)らで、連座した者は100人以上処罰された。そのうち、吉田松陰が殺された。
詳細:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E6%94%BF%E3%81%AE%E5%A4%A7%E7%8D%84

補充:「安政の大獄」との関連事件―桜田門外の変(さくらだもんがいのへん) 「安政の大獄」事件に弾圧された脱藩浪士が安政7年3月3日(1860年3月24日)に江戸城桜田門外(東京都千代田区)において、大老・井伊直弼を暗殺した事件である。
詳細:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%9C%E7%94%B0%E9%96%80%E5%A4%96%E3%81%AE%E5%A4%89




                     本文は「日本を知ろう」より
                     解説は本人
                     参考文献:詳細のところに載るウェブサイト
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2011/12/11

自殺問題における中日の比較  

       中国の自殺問題と日本の自殺問題の比較

 
 背景と現状
 日本は先進国でありながら、自殺大国だと世界中に認識されています。1999年以来、毎年3万人を超える人たちが自らの意思で死を選んでいます。この数字から単純に平均して、毎日80人ぐらいの人が自殺により死亡していることがわかります。それに対して、中国は新興国で、今経済発展を続けている中で、自殺問題が深刻になってきていることがだんだん浮かび上がってきました。中国の病気予防センター(中国疾病预防中心)2009年のデータによると、毎年平均28.7万人が自殺により死亡し、200万人が自殺未遂だそうです。過去50年間に、自殺率が60%までに上がったことがわかりました。
 本稿では、自殺者の年齢、自殺地域、男女別という三つの点で中国と日本を比較し、どんな理由が人々に自分の意志で死を選ばせているのか、その原因を明らかにしたいと思います。

 本論 各比較
 1.自殺者の年齢
 それでは、まず、自殺者の年齢についてお話します。日本では、自殺する人の年齢は35歳から55歳の間、中国では15歳から35歳の間です。なぜ日本ではそのような年齢層が多いかというと、警察庁生活安全企画課の平成21年中における自殺の概要資料からは、「勤務問題」と「健康問題」が原因だということが明らかになりました。日本は終身雇用制度を取っているため、途中でリストラされたら、もう一度正社員になる可能性が極めて低いです。そして35歳から55歳の間の人がリストラされることが多く、また健康にも問題がある人も多いことも資料からわかりました。      
 中国では、先ほどの中国の病気予防抑制センター(中国疾病预防控制中心)のデータによると、15歳から35歳の間では鬱病による自殺が一番多いそうです。人々は急速な発展に適応できないため、物質的な現役社会では、だんだん自分を失い、心理的な病気を引き起こしたのだろうと考えます。

 2.自殺地域
 それから、自殺地域についてお話します。日本では、都市での自殺率が高いのに対して、中国では、農村での自殺率が異常に高く、都市での自殺率の三倍であることが中国の病気予
防抑制センター(中国疾病预防控制中心)のデータよりわかりました。日本で、都市での自殺が多い理由は、生活や仕事からのプレッシャーがかかりやすく、みんなは毎日様々なことに追われていて、のんびりする時間が少なく、やがて心理的な病気になり、自殺の道に走り出すのだろうと考えます。中国では、なぜ農村での自殺率が都市より高いかというと、先ほどの、年齢別の理由にも繋がります。農村では、貧乏な家庭が多く、教育をきちんと受けられないのが現状で、みんなは様々な常識が不足で、よくささいな事にくよくよし、人間関係の範囲も狭いからです。都市より遥かに心理的な病気にかかりやすいのだそうです。
                
 3.男女別
 最後は、男女別についてお話します。日本では、男性の自殺率が女性より多いことが、また警察庁生活安全企画課の平成21年における自殺の概要資料によりわかりました。その理由は年齢別の場合の理由と同様、会社に勤めている途中でリストラされた人の中に、男性が多いからです。そしてうつ病にかかる人の中に、男性も多いそうです。中国は日本と反対で、女性の自殺率は男性の自殺率より25%高いそうです。なぜかというと、自殺する女性が農村の女性である割合も大きく、その理由は先ほどの自殺地域の理由と近く、また農村の女性が家からの圧力を感じやすいからです。教育を受けたことがない人には、未だに封建的な意識を持ち、夫が不倫したことや、また人間関係の範囲が狭いので、他の人に指さされたことなどが全部自殺の原因になります。

 まとめ
 日本の自殺であろうと、中国の自殺であろうと、誰の命でも尊く、掛け替えのない存在です。それは、自殺願望を思いとどまらせるには、コミュニケーションをすることが大事なことを示します。日本では、かつて自殺を思いとどまった人によると、普段だれにも理解をしてもらえず、ずっと孤独を感じてうつ病になったそうです。そして、中国では、衛生組織の専門家によると、1999年から2000年の間に、自殺した人の62%は農薬を飲むことによって死亡したそうです。そういう人たちは、自殺する前に、他愛のない口争いなどして考えもなく、農薬を飲んだ事例が多いそうです。そして、60%の女性は一時な衝動のため、自殺の道を選んだそうです。ようするに、よく人と交流すれば、自殺まで至らないだろうと考えます。また、政府からの協力も大事です。中国の自殺防止関与機制はごく大都市だけに設置されていて、農村にはまだ届かないのが現状です。これからは、自殺の問題の深刻さと重大さを認識し、取り組む必要があるのでしょう。                 





参考文献
平成21年中における自殺の概要資料(2009)・警察庁生活安全局企画課
http://www.chinacdc.cn/(2011/12/03 アクセス)
http://www.chinacdc.cn/gwxx/201001/t20100119_33802.htm (2011/12/03 アクセス)
http://www.chinacdc.cn/mtdx/mxfcrxjbxx/200901/t20090108_38969.htm (2011/12/03 アクセス)

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2011/10/30

「告白」という映画について  

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 先日、「告白」という日本の映画を見ました。見たら、どうしても気になって以下の感想を書きました。

 この映画で出場した人物はみんな全員どうかしていると思います。

 まずは、主人公森口先生についてですが、自分の子供が死にました。警察は誤ってプールに転落したことにより事故死だと判断しましたが、森口先生が信じなくて、いろいろな調査を通して、事情が頭からわかりました。もちろん、犯人も誰かがわかり、証拠もあります。しかし、犯人は中学生で日本の少年法で保護されるため、警察に訴えても、結局犯人は何の罪を問われないです。そこで、主人公森口先生は子供を失った悲しみのあまり、そして犯人に対する怒りで復讐を図りました。ここまでの主人公の意図がだれでも理解できるのでしょう。しかし、これから主人公が取った復讐手段が私には理解できなくなりました。それは直接に犯人を殺すのではなく、犯人に命の大切さを知らせ、そして犯人を手のひらで翻弄し、心理的に追い詰めるのです。その執着心があまりにも異常で、理解できないというより、現実味がないと感じます。多分私は主人公のように、誰かのせいで、大切な家族を失ったことはないから、理解できないのだと思われるかもしれないですが、地球が毎日回っています、誰かのために、止まることはないから、そして主人公はまだ若くて、この先の道もまだ長いし、積極的に生活に向かっていなければいけないと思います。

 次に、主人公の森口先生の生徒で犯人AとB二人のことです。共通点として、二人でもほぼ同じような家庭環境で育てられ、母親から受けた影響が一番強かったと見えます。

 Aの母親はもともと将来有望な電子学の研究者で、Aを生むために、自分の夢を捨てました。そして自分が持っている才能を全部小さいAに教えようとしました。しかし、小さなAにはそのような難しい電子学が分かるはずがないですから、時々Aに暴力を振るい、時々Aを強く抱きしめるのです。このような行動は私にしてみれば、もうとっくに普通の人間じゃなくなっています。最後Aの母親は家庭とAを捨て、去っていきました。Aにはいくら虐待を受けても母親は母親ですから、母親からの愛が欲しがってしょうがないです。だが誰からの愛も感じられなくて、愛を探し、人に褒められたい、認められたい一心で、極端な考えを持つようになりました。最後どの命も尊く、どの命も美しく、この世に失ってもいいなどの命一つもないということを言いながら、設置しておいた爆弾のスイチを押しました。まさに気が狂っていると言えるでしょう。

 Bの母親はBが人を殺したのを知り、可哀そうだと言いました。自分の子供は人を殺したのに、被害者の森口先生が可哀そうではなく、自分の子供が可哀そうだと思っている考えに私は驚きました。自分の子供を庇う親の気持ちは少々理解できますが、人殺しの罪を犯した子供をどうやって庇うのは、Bの母親が知らないようです。私はもし自分がBの母親だとしたら、自分の子供が人を殺したと知ってどうすると想像してみたことがあります。多分、まずは自分が息子のBと一緒に土下座して謝り、そして母親としてどうして人を殺す子供ができただろうとBを殴り、また交番に行って警察に告白するだろう。このような反応は正しいかどうか、私にはあったことがないから分からないですが、Bの母親は自分の子供が人を殺したと知った後の反応は、絶対普通の人間にあるまじき反応だと思います。このBの母親も私はこの映画の中で一番不思議だと思い、理解できないところです。最後の結果、Bは心理的に追い詰められたあげく、自分の母親を殺した痛ましい光景に至りました。

 Aには殺意がありました。でも殺すことができなかった。Bには殺意などなかった、なのに主人公の子供を死なせてしまったと、この意味で全映画を貫くと前置きされましたが、最後まで見たら、実際はどうかなあ、反対のではないでしょうか。
 
 それから、生徒の北原美月のことです。Aを理解しよう、救おうとする努力が見えますが、どうやら方法を選び間違ったようです。人を救うのは、その人を闇から歩き出せることで、一緒に落ちるのではありません。二人は一緒に堕落し、空しさに充実された結果、Aに殺されました。

 最後は、森口先生のかわりに新しい担任になったウェルト先生のことです。教育に対する熱意が溢れ、熱心の人ですが、いつも森口先生からアドバイスを求めたせいで、逆に利用されました。ですから、彼に対する言いたいことは、自分の意見や考えを持たなければならないことです。わからない時他人からアドバイスを求めるのも当たり前ですが、ほどがあります。またそのアドバイスはあくまでも他人の考えですから、自分は完全にその通りするかどうか、あるいはどのぐらいするかをその判断力も持つべきです。これは普通の人間でも持つことで、ましてや教育の仕事に携わっている先生としてもっと普通の人よりしっかりするのではないでしょうか。
 
 誤った生徒を正しい道に導く、教師にはその責任があると主人公森口先生が言いました。まったくその通りです。子供は小さい時影響を受ける環境は主に二つ分かれると思います。それは家庭環境と学校環境です。家庭環境はいくら外人でどうしようとしても変えることができない不可変条件だと思います。それに対して、学校の環境は可変条件です。つまり、いくら家庭で虐待や暴力などをされても、学校の環境で癒されることができましたら、人間はAとBのように追い詰められないだろうと考えます。ですから、学校の環境は一番重要だと思います。これからAとBのような人が出ないように、可変条件として学校の教育はどれほど重要かを社会に、教育に携わる人に知ってほしいです。

 大切なものを失った音は果たして「パチン」なのか、それとも「ドカン」なのか、その場で実感したことがない人にはわかることはないでしょう。しかしどれにしても、人間としての本質を失ってはいけません。誰の命でも尊い、かけがえのない存在です。しかしながら、これを知っている人はどのぐらいいるのでしょう。以上の考えを持ちつつ、私は思わず少年のAとBの演技に感心しました。





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