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2012/1/12

吉田松陰(よしだ しょういん)  

 幕末(注1)、維新(注2)期は、動乱の時期でいろいろな人々がいろいろな考えを持っていた。長い間の鎖国(注3)のため、日本が世界の動きに取り残されるのを恐れたためなのか、外からの圧力を防ぎ切れないのではないかという心配があったからなのか、幕府の力が弱くなってきたせいなのか、とにかく、多くの人々がそれぞれ、まじめに日本の将来について考え、その考えに従って行動しているのである。さまざまな動きが見られたが、こういう動きは主に藩単位で行われた。中でも最も強い藩の一つに長州藩(注4)があり、高杉晋作、木戸孝允(注5)、山県有朋(注6)、伊藤博文(注7)などの歴史の教科書に必ず出てくる幕末、維新期の指導者たちが、長州藩からたくさん出ている。この人たちは、みんな同じような考えを持っていたわけではないが、同じ藩出身という以外に、もう一つの共通点があった。それは、彼らが、吉田松陰(吉田寅次郎ともいった)に教えを受けたということであった。松陰はこういう彼の弟子たちを通して、維新を導き出した人と言えるかもしれない。そんなに影響力のあった松陰とは、一体どんな人だったのであろう。
 
 ロバート•ルイス•スティーブンソン(1850-1894)は、イギリスの作家で、彼の作品『宝島』は今日でもよく知られているが、“Familiar Studies of Men and Books”という本の中で、「Yoshida-Torajiro」を取り上げている。ビクトル•ユーゴー、ウォールト•ホイットマン、ヘンリー•ソローなどと同じように、松陰にその本の一章をさいているのである。その章の初めの所で、スティーブンソンは次のように言っている。

 吉田寅次郎という名前はイギリス人の読者には知られていないかもしれないがガリバルディやジョン•ブラウンの名前と同じように、誰でも知っている言葉になるであろう。近いうちに、吉田がいかに日本の維新に影響力を持っていたかということを、もっと詳しく知る機会があると思う。

 海の向こうのスティーブンソンまでも感心させた松陰の29年間の短い一生の中で、一番よく知られているエピソードは、真夜中の荒波の中を友人と二人、小船でペリー(注8)の軍艦に乗りつけ、アメリカへ密航しようとしたことである。そのところ、幕府は鎖国政策を取っていたから、外国と係わりを持つことは一切禁止されていた。見つかったら、本人ばかりでなく家族や友人まで罰せられても不思議ではなかった。19世紀の前半、1840年ごろ、日本のお隣の中国はその当時清国といったが、アヘン戦争でイギリスに負けてしまっている。この事件で一番外国の恐ろしさを思い知らされたのは日本の西洋学者たちで、彼らは、日本も清国と同じような目にあうのではなかろうかと心配した。松陰に最も影響を与えたのは、「相手を知ることによって自分を知ることができる」と考え佐久間象山という西洋学者であった。象山は、西洋のことを知ろうと、一生懸命書物を読みあさっていた。それに比べて、松陰は書物だけから得られる知識は限られていると考えて、思い切ったことを命がけでやってのけた行動派であった。

 松陰は、ペリーが初めて日本にやって来た時から、海外で勉強したいと思っていたが、準備が間に合わず、次はロシアの船が長崎に来ていると聞いて急いで駆けつけたが、ちょうど船が出た後だった。そこで、ペリーが2度目(1854)に日本にやって来た時、今度こそはと、友達と二人でペリーの黒船(注9)に乗りつけ、いっしょにアメリカに連れて行ってくれるように頼んだのである。ただ西洋について知りたい一心からにほかならなかった。しかし、ペリー側は、幕府との交渉の最中で、日米関係が悪くならないようにと思って断っている。残念ながら、松陰は命がけの計画が失敗に終わり、翌日幕府に自首したが、ペリーは、密航の罪で松陰たちが処罰されると聞いて、罪を軽くしてくれるように幕府に頼んでくれたと言われる。その当時、西洋のことについて知っている人は、ほとんどいなかった。ペリーの船に招かれた幕府の役人たちは、ワインをすすめられ、西洋人は人間の生き血までのかと、気が遠くなるような思いをしたという。また、彼らはバターを髪の毛につけるための油だと思い、口にした途端、吐き出している。そういう状況の中を、全く何も分からない世界に向けて、松陰はペリーの船に乗り込んで行ったのである。そのまま、ペリーが松陰をアメリカに連れて行ってくれていたら、歴史が変わっていたかもしれない。

 松陰は小さい時から、まれに見る秀才で、もう12、3歳のころから、長州藩や藩士の前で講義をしているほどである。思想家として書き残したものはたくさんあるが、29歳の若さで処刑されてしまったため、その自分の思想を体系的にはっきり打ち出すところまでは、いかなかったらしい。しかしながら、人徳のある教育者であったということは、誰もが認める。獄(注10)に入れられていた時も、同じ獄中の人殺しや強盗などが、みんな松陰を慕って改心したという。

 松陰は許されて獄を出てから、松下村塾(注11)で、上に述べた維新の指導者たちを教育している。この人たちは主に、天皇を敬い、外国との交渉をよく思わない人々であった。言い換えれば、幕府の政策に反対する人々であった。松陰も、幕府が安政5年(1858年)に西洋の五つの国々と結んだ条約(注12)に反対した。その条約は、天皇の許可もなしに幕府が勝手に結んだ不平等条約で、日本の立場を悪くするものであったからである。反幕の人々の動きを恐れた幕府は、そういう動きをおさえようとして、安政の大獄(注13)と呼ばれる大弾圧を1858年に行い、吉田松陰も29歳の若さで死刑を受けた。

 山口県の萩に行くと、松陰が寝起きしていたという小さな部屋を見ることができる。松陰は死ぬまで、皇居のある方に足を向けて休むことはなかったのだそうだ。


注1:幕末 江戸幕府の終わりの頃(1853〜1869)
詳細:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%95%E6%9C%AB
補充:江戸幕府 17世紀から19世紀にわたる(1603〜1867)265年間の江戸時代のことを指す。

注2:明治維新(めいじいしん) 江戸幕府から明治政府へ、つまり江戸幕府に対する倒幕運動、及び天皇親政体制の転換とそれに伴う一連の改革 
詳細:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E6%B2%BB%E7%B6%AD%E6%96%B0

注3:鎖国 江戸幕府(徳川幕府とも言える)が日本人の海外交通を禁止し、外交・貿易を制限した対外政策である。(つまり日本の江戸時代に、日本国内はほかの国との貿易などの交流は一切なし、自給自足の状態である。)
詳細:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8E%96%E5%9B%BD

注4:長州藩 今の日本にある山口県萩市のところを指す。(九州と本州の間にあるところ)

注5:木戸孝允(きどた かよし) 幕末期、桂 小五郎(かつら こごろう)と改名し、尊王攘夷派の中心人物である。
補充:尊王(派) 日本の天皇をきわめて敬う人々
   攘夷(派) 外国との交渉をよく思わない人々

注6:山県有朋(やまがた ありとも) 高杉晋作が創設した奇兵隊に入って頭角を現し、後に奇兵隊の軍監となる。明治政府では軍政家として手腕をふるい日本陸軍の基礎を築いて「国軍の父」とも称されるようになった。
詳細:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E7%B8%A3%E6%9C%89%E6%9C%8B

注7:伊藤博文(いとう ひろぶみ) アジア最初の立憲体制[1]の生みの親であり、またその立憲体制の上で政治家として活躍した最初の議会政治家として、現代に至るまで大変高い評価をされている。中国のハルビンで朝鮮独立運動家の安重根によって暗殺されたという。
詳細:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E8%97%A4%E5%8D%9A%E6%96%87

注8:マシュー・カルブレイス・ペリー(Matthew Calbraith Perry)、アメリカ海軍の軍人。1853年に日本の江戸時代に艦隊を率いて鎖国をしていた日本へ来航し、開国させたことで知られる。

注9:黒船(くろふね) 幕末(1853年)に来航したペリーの艦隊を黒船と呼ばれる。

注10:獄 (野山の獄とも言える。)今の刑務所に当たる。日本は当時鎖国政策を取っているため、外国に行くのは禁止されていた。吉田松陰は1854年にペリーの船に乗れず、翌日幕府に自首し、1年間ぐらい投獄された。

注11:松下村塾 1855年に吉田松陰は許されて獄を出てから、長州藩で講義した私塾である。当時、高杉晋作、木戸孝允、山県有朋、伊藤博文などの人たちが吉田松陰に教えを受けた。

注12:条約 1858年日米修好通商条約(にちべいしゅうこうつうしょうじょうやく)のことを指す。主な内容は日本に不利の領事裁判権と関税自主権なしのことであった。

注13:安政の大獄 安政5年(1858年)から安政6年(1859年)にかけて、江戸幕府が行なった弾圧である。当初は戊午の大獄(つちのえうまのたいごく、ぼごのたいごく)とも呼ばれていた。
         江戸幕府の大老井伊直弼(当時権力を持つ人)や老中間部詮勝らは、勅許を得ないまま日米修好通商条約に調印し、また将軍継嗣を徳川家茂に決定した。安政の大獄とは、これらの諸策に反対する者たちを弾圧した事件である。弾圧されたのは尊皇攘夷や一橋派の大名・公卿・志士(活動家)らで、連座した者は100人以上処罰された。そのうち、吉田松陰が殺された。
詳細:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E6%94%BF%E3%81%AE%E5%A4%A7%E7%8D%84

補充:「安政の大獄」との関連事件―桜田門外の変(さくらだもんがいのへん) 「安政の大獄」事件に弾圧された脱藩浪士が安政7年3月3日(1860年3月24日)に江戸城桜田門外(東京都千代田区)において、大老・井伊直弼を暗殺した事件である。
詳細:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%9C%E7%94%B0%E9%96%80%E5%A4%96%E3%81%AE%E5%A4%89




                     本文は「日本を知ろう」より
                     解説は本人
                     参考文献:詳細のところに載るウェブサイト
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