2013/5/11

「行けれない」なんて・・・  

私が「ら抜き言葉」を個人的に絶対に認めないことは、
既にご存知のことと思う。
絶対に認めないのだから、とても厄介で、耳に入る度に
いちいち頭の中でビクッビクッと反応するのである。

何故そこまで拘るのかというと、理由は一つである。
今や、日本人が日本人であることの主体性は、母語で
ある日本語を話して生活しているかどうかだけだから
なのだ。
御飯に箸の文化なんていうものは、日本人だけの文化
ではないから、日本人の証明には成りえない。
日本語を話し、日本国籍を持ち、日本語で夢を見て、
自分は日本人であるとの自覚があってこそ日本人なの
である。

ところが、その唯一無二である日本人としての自覚を、
そして証を、自らみっともない変化をさせて使用し、
平気でいる神経なのだから腹が立つ訳である。

言葉は歴史と共に変化するではないか、という言い分
がある。
確かに、長い目で見ればそうである。
私とて全く異論はない。
ところが、ここ数十年の変化の仕方は加速度が違う。
しかも、幼稚に変化しているのだから受け入れがたい。
日本人の一人として自覚が足りなさ過ぎると言いたい
訳である。
「まともな母語」を話せもしないのに国を語るな!と
言いたいのである。
「通じればいいじゃない」と思っているのなら、子に
国語の授業を受けさせる意味がないではないか。

さて、何故また「ら抜き言葉」に関して話を蒸し返すのか
というと、私の周囲の伊予人が全員「ら抜き言葉」だから
である。
これは余りにも異常である。
山形市内では感じたことがない程の頻度で皆が遣う
のだから、私は過敏にならざるを得ない。

で、調べてみて、私は驚いた。
静岡県と愛媛県では他の地方より早く「ら抜き言葉」
を当たり前のように遣うようになったのだそうな。

正岡子規も草葉の蔭で嘆いていることだろうよ。
何が文学の街なもんか!
聞いて呆れるわ。

六十歳を過ぎた男が、「あの道は行けれる」なんて
平気で言う。アイツもコイツも言うのだ。
だから当然「行けれない」とも言う。
これは「ら抜き言葉」ではないが、何故「行けれる、
行けれない」と遣うのかチンプンカンプンである。
「行ける、行けない」で何の不都合がある。
「ら」は抜いて「れ」を入れる必要性のどこがある。

ははん、これは伊予の方言なのだと思うことにした。
無理やりに思うことにしたのである。
そうでも思わなければ謎は解けないし、不快である。

それに比べると、山形弁はとても便利な方言だ。
「ら抜き言葉」なんて全く関係がない便利な言葉で
あるのを、山形の皆さんは長年住んでいて、遣って
いて、お気付きだろうか。

この服は着られる・・・が、美しい言葉遣い。
この服は着れる・・・が、ら抜き言葉。
この服は着るい・・・が、山形弁。
この服は着らんにぇ・・・が、山形弁。

この豚は食べられる・・・が、美しい言葉遣い。
この豚は食べれる・・・が、ら抜き言葉。
この豚は食べるい・・・が、山形弁。
この豚は食べらんにぇ・・・が、山形弁。

どうだ!まいったか!
他のパターンもご自分で少しは考えてみられよ。
例に挙げたように、山形弁には歴史的文法が完成して
いるのが理解できようぞ。
だもの、山形市民は山形弁に誇りを持つべし。
おそらく、全国で唯一、山形市民だけは独自の
文化を持っているのである。

私は自分の母親の言葉遣いから、この法則は若い頃
から知っていた。
その点だけは母に感謝しているのである。

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