旅立ちました(2011年2月15日)
1月9日の入院以来、我が家の生活スタイルは母に合わせたものとなった。私は朝7時前に京成バスないし自家用車で病院へ向かう。15分程で到着。病室へ行くと母は起きている。当初は出来た会話もだんだんと力のないものとなった。極力話しかけるようにして、呆けないように努めた。病室の窓からはマンションや多くの鉄塔が見える。入院当初は、様々な格好のマンションが馬小屋のように見えたらしく、「馬ていさんに連れられて馬が帰ってきたよ」などと言う。また、鉄柱はすべて建設中のスカイツリーに見えたようで、「だんだんと高くなってきたね」などと言う。そうしたエネルギーも2月になると弱ってきた。
朝食は病院から出るものを受け付けなくなり、家から持参するキュウイ、いちごなどを好んで食べた。目が明かない時期も口元に持ってゆくと、口を開けてキューイだけはパクパクと食べた。食事後のうがいなども本当に最後の最後まで出来ていた。
看護師が夜勤から日勤に交替したのを確認した8時過ぎ、病院を出る。病室を出るとき声をかけると手を振っていたのが、だんだんと出来なくなっていった。病院前のバス停から津田沼行きの京成バスに乗車する。
昼前には父が到着する。父と母とでどんな会話があったのかは解らないが、父は病室にいる間中、母の脚を擦っていた。年末以来、母は大根足のようにむくんでしまった脚を嘆いていた。病院からの利尿剤、それに鍼治療を受けていたが、父は父なりに母の容体を気遣っていたのだろう。
夕方、父が病院から帰宅する。父は家で一人ぼっちで夕食をとる。入れ替わりに18時前に私が病院に到着する。自分の食べモノも駅前の西友等で買い込んでゆく。一緒に会食することで家庭的雰囲気を作り、何とか食べさせようという試みである。キューイは最後まで母が食べた食物である。ビタミンCはがん細胞をやっつけると聞いていたが、そんなこととは関係なく母はキューイが大好物だった。
そのキューイだが、便の中に消化されないままの緑色の固形物が出てきた。食べてももう消化しきれないようになったみたいだ。
2月14日の夕方、急に吐血した。幸いなことに母の担当のS看護師が上手く処置してくれた。結構な量の吐血だった。鼻から入れた管でおう吐物を吸引しているのだが、母は吐いている最中苦しそうだ。おう吐物が漏れないように受け皿と顔を必死で押さえていたが、口がきけたら「もう、やめてえ!」と叫んでいたに違いない。
その後、止血の点滴を受けた。その日の夜は、付き添うことにした。付いていて良かった。明け方再び吐血があった。今度は昨日の3倍は出た。看護師さん2人で必死で処置してくれたが、またしても押さえている私は、心の中で「ごめんね、ごめんね」と繰り返した。きっと苦しかったに違いない。
げーげーやった後なので呼吸が荒くなった。酸素マスクを付けることになった。少しは楽になっただろうか。午前中、父と交替で一時帰宅した。しかし、直ぐに父から電話があり、病院へ戻ってきてほしいとのこと。病室に戻るとベッドの横にはレピーターが持ち込まれていた。心臓の鼓動が表示されているが、最初見た時は「何と大げさな」と思ってしまった。母の容態はそんなに悪いのか。まだまだ大丈夫なハズだ。今夜も泊まり込むことにした。父は家に帰した。
泊まり込みに備えて簡易ベッドを設営する。毛布を整えながら、「おかあさ〜ん!」と呼びかけると、「はあぁ」と返事が返ってきた。これが最後のコミュニケーションとなった。
夕方、会社帰りの妹が来た。しばらく居たのだが、「もう帰っていいよ」、「いやもう少し」と言っているうちにバスの時間がなくなり、タクシーで帰る手はずにしていた。きょうは私が泊まり込むので一人付き添えば充分だ。
そうこうしているうちに、21時過ぎ、母の容態が激変した。心拍数がスーと落ちてしまった。あらどうしたのかしら、おかしいなあと思いながらナースコールを押した。その間に急激に血圧が落ちた。レピーターで100あったのがすうーと下がってゆく。限りなく0に近い。蘇生措置をほどこしていいものか。心臓マッサージをすると、確かに一時的に100近くまで心拍数が上がった。救命救急講習会で学んだ通りなのだ。でも、これは無意味な延命措置ではないか。やっていいものかどうか迷った。
母の鼓動は元へ戻らなかった。時計を見ると21時30分だった。看護師がレピーターを確認。10分ほどして当直のF医師がやってきた。きょうは泌尿器科の医師である。脈と心音、瞳孔を確認する。これが「三兆候説」による死亡の確認かと妙に納得した。こうして、21時40分、母の死が確認された。
実はこの時、私と妹は大忙しだった。というのは、21時過ぎから家に電話するも父が出ないのだ。加入電話、携帯電話いずれもつながらない。妹は家に帰って父を連れてくるという。母が危篤状態なのに父は何しているのだろう。妹の帰宅は私が止めさせた。お互いの携帯で家に電話を入れている中で、母は息を引き取ったのだ。
死亡が確認されると、看護師さん2名で措置をして頂いた。普段からきちんとした身なりをしていたことを知っていたお二方がきれいに化粧をしてくださった。どの服を着せてあげましょうかねというので、母のお気に入りの横浜で買ったシャツを着せた。
病室から数m離れたところにあるフリースペースで待っている間、私は携帯から110番した。いま病院から電話していること、母が亡くなったことの事情を話す。高齢の父の「安否確認」ということで、警察官が自宅に立ち入ってくれた。
あとから父に聞くと、気が付いたら枕元にお巡りさんがいてびっくりしたそうだ。父は毎晩の恒例なのだが、夕食時に焼酎のお湯割りを飲んでぐっすり寝込んでいたのだ。寝入りばなを警察官から起こされた訳だ。父はタクシーで病院へ戻ってきた。「お母さん、苦しまなかったよね」という。
病院では当番制で葬儀社と提携しているそうだ。葬儀社の方が病院のベッドからストレッチャーへ移し替え、地下の霊安室へ運んでくれた。4階の病室からは、医療スタッフ用のエレベーターで下へ降ろされた。エレベーターのドアーが閉まる時、先ほどの看護師さんが深々と頭を下げて下さった。
葬儀社の手配だが、我が家の町内にある葬祭場にお願いすることにした。電話すると、病院内の当番葬儀社から引き継ぎが行われた。母は病院の専用出口から出るので、私たちは病院の表玄関付近で車を進めて待っていてほしいという。玄関付近で待っていると寝台車が後ろに付いた。毎日母の看病に通い続けた道を自宅へとたどった。
葬儀社の係員が簡単な祭壇を設えた。「お母さん、帰ってきたよ。よく頑張ったね」とベッドに寝かす。
翌日、本来ならこの日は母の眼科の3ヶ月ごとの検診日だった。3ヶ月前は自力で済生会習志野病院へ出かけていたのに・・・。母の葬儀について決めた。葬儀は家族葬でやることとし、原則としてどこにも知らせない。ごく親しい親戚と知り合いだけで母を送ることにした。葬祭場は自宅から歩いて数分の所なので何かと便利だ。しかし、こんなにも早く母が亡くなろうとは夢にも思っていなかった。
僧侶と葬儀の打ち合わせをする。我が家は浄土宗なのだが、真言宗のお寺さんである。戒名をどうするか迷った。母は元気な時分「お母さんは戒名なんかいらないよ」と言っていた。でも、戒名をお願いしたところ、浄土宗の戒名の付け方ではなく、かなり変わった戒名だ。「宝壽舞優信女」という。
「宝塚、母の名前、舞台の上で優雅に舞う」といった趣旨だそうだ。一番喜んだのは父だった。母も「しょうがないわねえ」と言っているに違いない。通夜と告別式を終え、緑区にある千葉市の火葬場で荼毘に付した。はじめて行ったが立派な施設であった。お骨になって家に帰ってきたが、やはり寂寥感が漂う。
<母の病状メモ>
*当時私が書き残していたメモです。
2/14(月)
7時前に到着。まだ半分眠っていた。前夜頬っぺたを擦ってくれた夜勤のTさんに聞くと、夜は12時近くまで起きていたとのこと。8時前に退室。
15時過ぎに到着。日勤はSさん。昼はバナナを食べたとか。16時ごろから具合が悪くなった。吐血した。吸痰器で吸い取る。吐き気がすると訴えるので、吐き気止めの点滴がでた(プリペラン)。
17時から鍼灸治療(10回目)。吐き気止めとお腹を動かす治療。食べすぎとの指摘。施術中にS医師もやってきた。「鍼などを使って苦痛が伴わないようにやりましょう」とのこと。プリペランの後は、止血剤の点滴。アドナ注射液(50mg/10ml)、トランサミン注射液5%(250mg/5ml)。19時の検温は、36.6、血圧の上は100を超えているとか。Sさんの勧めで付き添うことに。夜勤はSZさん。20時に吸痰。夜中に数回体位変える。いびきはなし。
2/15(火)
あさ4時ごろ痰を取ろうとして吸引したところ、大量の吐血あり。ベッド汚す。昨夕の3倍近くは出た。SZさんとTさんで対応。血圧、上は90あるとのこと。6時に酸素が91〜2となったため酸素マスクに変わる。7時半ごろ98%に上がる。呼びかけには反応する。止血剤点滴終了。次は10時からとのこと。
9時半に日勤はSさんに交替。10時に点滴開始。S医師回診。10時〜13時帰宅するも、直ぐに呼び戻される。病室にはモニターが入れられていた。朝の吐血で汚した着替えをしていた。17時半にSさんから夜勤のKさんへ。
18時半検温。36.7、上は80くらい。今晩も泊り込み。「おかあさん」と呼びかけると、「う〜ん」と返事を返した。
21時過ぎから様態が急変。それまで110はあった心拍数が、21時15分ごろから落ち始めた。胸を押すと一時的に心拍数は100以上に上がるも21時半ごろにモニターは0になった。21時41分に当直のF医師による三兆候説による確認が行われ、死亡が確認された。苦しまない旅立ちであった。
しばらくして看護師二人によって処置が行われた。荷物を片付けて、院内の葬儀社によって霊安室に運ばれる。23時ごろにセレモに引き継がれて、帰宅した。
*その14/あちこちにお礼参り
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