新飯塚駅前でのくらし(1957〜60年)
このブログを書いていたきょう(2012年7月1日)、父が引出しを出し入れしていると、<幼>と記されたバッジがこぼれ出てきた。妹のかと思ったが、調べてみると私の卒業した福岡県飯塚市にある
聖母幼稚園のものであることが解った。母が大切にしまっておいたものと思われ、ひょんなことから半世紀を越えた年月を経て私たちの目に触れることになった。なんとまあ!! 「あなたが昔のことを色々書いているから、出してあげたのよ」と母が言っているようである。何はともあれ、まずはバッジの画像をアップしておきたい。
我が家の隣にあったカトリック教会が運営する飯塚聖母幼稚園。50余年ぶりにバッジが出てきた。
さて、その新天地・飯塚では、筑豊本線・新飯塚駅前の借家が私たちの住まいとなった。落ち着いたたたずまいの甘木と比べて、陰りが見えてきたとはいえ石炭産業真っ盛りの飯塚は活気に満ちた街だった。三井、三菱などの大手資本ではなく、筑豊の炭鉱は中小新興成り上がりの個人事業主が中心で、飯塚は麻生一族の町であった。新飯塚駅近くにはまだ木造だったが麻生病院が建ち、他方炭労が強い地域だったので、駅前ではオート三輪の荷台に乗った楢崎弥之助が演説していた。また、駅に出入りする蒸気機関車の音が絶え間なく聞こえ、私は鉄道ファンになった。
新飯塚での生活、朝は「トントン・トントン」という台所の包丁の音で目覚めた。火は七輪でおこしていた。まだガスなどはない。泉酒造という焼酎の蒸留元が大家さんで、年末の餅つきなどは蔵男の人たちがやってくれた。この焼酎屋さんの離れに、父の役所の上司の方が住んでいた。子供のいない家庭だったので、当時まだ一般家庭には普及していなかったテレビを見に、毎土曜日ごとに出かけていた。夕ご飯を御馳走になり、夜になると母が迎えに来ていた。夜道を歩いて帰っていたが、田舎道なので真っ暗である。父が茶目っ気を出して、暗がりから「うおーッ」と飛び出してきた。ビックリした母は私を抱きしめると、この世のものとも思えぬ金きり声で、「いやーーーッ」と悲鳴を上げた。
我が家の隣りには上記で触れた「聖母幼稚園」があった。昭和の初めに小倉から布教に訪れたカトリック教会の神父に、麻生多賀吉が土地を提供して教会と幼稚園が作られたのだという。甘木から引っ越した翌年春、私は近所の友達多数とともにこの幼稚園へ入った。外国人の神父さんの他に、園長は堤先生、担任は岩崎先生といった。
クリスマス会ではイエス・キリストの物語を描いた劇や童話に題材をとった浦島太郎などの劇をやったが、いま考えると舞台衣装はすべて母の手作りだった。カトリックの教義など全く知らない母が、何処から調達したのかキリストの法服などを縫っていた。まだまだ物資のない時代だったが、宝塚歌劇団や新劇を経験した母にとって、子供の劇の衣装作りなど朝飯前だったのだろう。
我が家でもクリスマスツリーを飾るようになった。テレビはまだなかったので電蓄でジングルベルをかける。
幼稚園の遠足は小倉の到津遊園だった。新飯塚から汽車に乗り、折尾で西鉄北九州線に乗り換えた。電車は単行電車だったが、八幡製鉄全盛期で乗客は満員の状態だった。到津遊園で解散となり、母は私を連れて近所の仲良しグループと、新駅で移転したばかりの国鉄小倉駅、関門人道トンネルで本州側に渡り、山陽電気軌道の路面電車で下関駅、関門鉄道トンネルで再び九州へ、小倉駅周辺の繁華街でお買い物など1日を大いに楽しんだ。幼稚園のグループが何よりの社交の場だったのだろう。母にとって久々の小旅行だったに違いない。
幼稚園を卒業すると、飯塚市立・立岩小学校に入学した。1学年5クラスあったように思う。担任は黒川志摩子先生といった。幼稚園から一緒のあべみきひこ君、しばたかつみ君らと通ったが、家族ぐるみのお付き合いであった。
また、クラスには麻生君という友達が何人かいた。麻生一族の末端にいる人たちである。何度か新飯塚駅の東側にあった広大な土塀に囲まれた麻生家に遊びに行ったことがある。本家のお坊ちゃまは東京にいるとのことだったが(学習院!?)、友人は分家だったようで、母屋とは独立した家に住んでいた。
小学校1年生の夏休みに、私は小児リュウマチにかかった。ひと夏、近くの内科医院に入院した。医院の2階の和室が病棟!で、付き添いは祖母だった。「おばあちゃん子」だった私は、博多から来てくれた付き添いの祖母との入院生活が楽しかった。しかし、1ケ月近く経つと母親が恋しくなり、「きょうはおばあちゃんではなく、お母さんと寝る」と言ってしまった。「そんなこと言っちゃおばあちゃんが可哀そうよ」と母がやんわりと諭したが、その日は母が付き添ってくれた。
飯塚の町は炭鉱景気で活気のある街だった。銘菓ひよ子と、チロリアンの千鳥屋の本店は飯塚にある。嘉穂劇場では春日八郎ショーなどが連日開催され、母は私を知人に預けて見に行ったという。また、自宅から歩いて本町商店街などへよく出かけた。井筒屋デパートを中心に賑わいのある街だった。
母から頼まれて新飯塚駅前に出来たパン屋に買い物かごを持ってお使いに出けた時、振り回した買い物カゴが勢い余って小さな川の中に落ちてしまった。直ぐに拾い上げたが、帰ってからこのことを母に話すと、危ないから一人で川に降りてはいけないよと言われた。
家では父が習ってきた餃子を作って、知り合いを招く「餃子会」がしばしば行われた。餃子の皮も小麦粉を練って茶筒の蓋で丸く切り抜く本格派で、昼頃から家族総出で準備が始まった。手間暇かけた分だけ美味しかった。丸テーブルの真ん中を取り外し、そこに七輪をおいてフライパンを置くと凄い火力である。餃子はいまでも我が家の自慢料理のひとつである。
円形のちゃぶ台は、中央部が外れて七輪が置けた。この日は餃子ではなくすき焼きのようだ。
餃子は美味しかったが、この頃晩ごはんを父と一緒にとった記憶がない。父はまだ20代で遊びたい盛り。毎晩友人達と飲み歩いていた。また、外面がいいので多くの友人を自宅に誘っては餃子などを振舞っていたが、母は家計が大変だったろう。私は知らないのだが、母は質屋通いなどもやったという。この頃のご飯は白米ではなく、母は麦を混ぜて焚いていた。よくぞ家庭を守ったものと今更ながら思う。
父が交通事故に遭ったのも飯塚である。当時は救急病院などはないので、上山田の知り合いの旅館に担ぎ込まれていた。夜中の出来事で、母は私が寝ている間に、父の友人の車で事故現場との間を往復していた。さぞかし心細かったことだろう。あさ目覚めると、母とこの旅館に出かけた。幸い重篤なことにはならずに済んだ。父は後日、別府へ療養に出かけた。別府で療養中の父に会いに、母と列車を乗り継いで出かけたことがある。新飯塚から後藤寺、行橋と乗り継いだが、乗り換えるたびに列車の進行方向が変わり、やがて海が見えてきたことを覚えている。後藤寺線→田川線→日豊本線と乗り換えたものと思われる。
冬の暖は火鉢だけだった。ふすまや壁は新聞紙でつぎがあたっていた。
一人だけだとちゃんとポーズを取るのだろうか。
こちらも。
2年生になった夏、父が再び転勤になった。今度は同じ石炭の町だが、熊本との県境に近い大牟田市である。
*その19/大牟田市銀水駅前での3ヶ月
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