四国へ行ってきた。その折、多度津にある母方の菩提寺−勝林禅寺にお参りしてきた。
2011年9月、
昨年(2012年)とお参りしたので、これで3回目となる。今回は住職さんにお目にかかることが出来た。
JR多度津駅から琴参タクシーに乗車する。JR多度津工場前で左折。琴平参宮電鉄・多度津桟橋通駅跡を過ぎると直ぐに桃山トンネルをくぐる。かつては電車トンネルとして使われていたが、昭和38年の軌道廃止後、昭和49年に道路トンネルとして再生されている。
お寺さんを訪ねたが本堂は閉まっていた。昨年も閉まっていたので住職さんの具合でも悪いのではないかと心配する。バケツを借りて墓石の掃除をする。この墓石は昭和17年に母の長兄が建てたものである。そして、その前には立派な燈篭が1対ある。前年(昭和16年)に母の母(私から見て祖母)が亡くなっており、そのため立派な墓石を建てたものと思われる。
当時、母は18歳。東京で新派の女優・市川紅梅さん(歌舞伎俳優9代目市川団十郎の孫)の内弟子となって修行中であった。初めて役が付き舞台があったので、母親の死に目には会えなかったという。それを不憫に思ったのか、妹思いだった長兄が母名義で燈篭を建て、母親の供養を計ったものと思われる。

木村家の墓石。回りには江戸時代末期からの親族の氏名を刻んだ墓石や石板がある。その前に母が寄進したことになっている燈篭が1対置かれている。

燈篭を拡大。<東京 木村寿美子>と刻んである。

右側から眺める。昨年までは判読不可能だったが、右側の燈篭にも<木村寿美子>と名前が刻んであった。

左側から眺める。

母が「恒ちゃん」と呼んでいたすぐ上の兄の墓標。13才の妹のために宝塚音楽学校への学費を出してくれた。博多の明治屋に勤めており、幼かった母に舶来のお菓子をくれたそうだ。

墓石の裏側。昭和20年7月17日にフィリピン沖で戦死している。あと1ケ月、日本の無条件降伏が早かったら死なないで済んだろう。

木村家の墓の全景。背後は本堂だ。
今まで判読できなかったのだが、今回の墓参で右側の燈篭にも母の名前が刻んであったことは新たな発見だった。お参りをすませて、道を挟んで反対側にある讃岐うどんの店「平野屋」に入ってお昼を食べた。女将さんにお寺の様子をうかがうと、住職さんは元気とのこと。耳が遠いので何度も呼んでみてはとアドバイスされた。昔は保育園をやっていた大きなお寺だったそうだ。また、琴参電車についても聞いてみたが、あまり記憶はなさそうだった。讃岐うどんとキノコ丼を頂いたあと、再び寺に戻ってみる。店には、NHKの「鶴べえの家族に乾杯」で中継されたときの写真が飾ってあった。
お寺に戻り、大きな声で呼びかけると、中から住職さんが出て見えた。尼さんである。2年前に訪ねたときのことやお寺の様子、多度津の街の変遷などをうかがう。帰り際に駅までの道筋を聞くと、いままで正面と思っていた琴参電車跡の道路は裏門で、正面は反対側とのこと。いわれたとおりに歩くと、人と自転車しか通れないような狭い道である。でも往時はこれが当たり前だったのだろう。
路地を抜けると本町通り(こんぴら街道)に出た。古い町並みが残っており、所々に案内板がある。旧家はまだ人が住んでいるが、1軒だけ<よっていってや〜>という空き店舗を利用して古い写真を展示しているところがあった。見学して琴参の電車の写真などを収めた。
途中で「きしゃば」と書かれた大きな石の道標があった。多度津は四国鉄道の発祥の地なのだ。駅までぶらぶら歩くと、15分余で着いた。とてもほのぼのとした多度津散策となった。

よっていってや〜で見かけた「多度津桟橋通駅」の写真。2階建ての近代的建物だったことがうかがえる。

多度津桟橋通駅を発車したばかりの琴参電車。桃山トンネル手前と思われる。

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