(その75)喪中ハガキを出しました
年賀状の季節になりました。今年は父が亡くなったので喪中はがきをだすことになりました。とはいえ、通りいっぺんの喪中はがきではなく、いささかの文章をしたためてお出しすることになりました。文面には父のスケッチブックからとった「菜の花」を透かし絵風に入れることにしました。印刷屋さんに何度も校正していただき、素晴らしいものが出来上がりました。
4月22日に父が88歳で亡くなりましたので、新年のご挨拶を失礼させて頂きます。
父は昭和5年に福岡市萬町(よろずまち)今の天神(親不孝通り付近)で生まれました。子供のころは野球ばかりをやっており、九州にはまだプロ野球球団がなかった時代、大阪から南海軍の鶴岡一人監督がスカウトに来たそうです。しかし、「職業野球」入りは家族全員が大反対、プロ入りは断念しました。その後福岡国税局に就職し、税務署で野球チームの一員として頑張りました。完成したばかりの平和台球場で「完全試合達成」第1号投手となりました。父の自慢の種でした。
昭和38年に東京へ出てきて税理士として独立し、錦糸町に事務所を構えました。晩年は妻(私たちの母)の介護を最後までやり切りました。趣味は野球からゴルフに代わり、ホールインワンを2度達成。また、水彩画にチャレンジして絵の具を買ってきては身近なものを描いていました。このハガキの絵は父のスケッチブックに残されたものです。
生前皆さまには本当にお世話になり、ありがとうございました。心からお礼申し上げます。それではよいお年をお迎えください。
お葉書を差し上げたら、父の福岡時代の友人の奥様から電話を頂きました。「むかしは二人ともよく飲んでばかりでしたね」という話で盛り上がりました。

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