1988年 デビュー
1999年 活動休止
2004年 クレヨン社ってまだいたの?
2010年 クレヨン社はここにいる。
2020年 公式 クレヨン社は『まだ』ここにいる。
以降、細々と現在に至る。
★後日追記
彼がこの歌を歌った頃はまだデビュー前で、橋本佳明と名乗ってたんだけど、現在K.MAY(ケーメイ)というアーティスト名で活動しています。
由来は彼の名は佳明と書くんだけど、高校生の頃友人たちからは「ヨシアキ」ではなく「ケーメイ」と呼ばれてたからと聞いてます。
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橋本佳明(はしもとよしあき)が作ったオリジナル曲と、その歌の収録風景の動画をアップしました。
橋本くんは私のいとこの子供(私の父の姉の娘の息子)で、同郷(いわき市)の出身であります。
彼は高校在学中に歌唱力の高さを認められ、東京の音楽専門学校に特待生として迎え入れられました。
専門学校ではさらに歌唱力を磨き、卒業後の現在も仕事と両立しながら音楽活動を続けております。
というわけで歌がうまいことはだいぶ前から知ってたんだけど、最近になって橋本佳明は曲作りもすることを知りました。
友人の結婚式のために彼が初めて曲を作ったというのです。
その曲を聴いてみて驚きました。
とても初めてとは思えない出来栄えだったからです。
せっかくなので、彼の曲をもっと聴きやすくするために、私の自宅に来てもらって歌ってもらったのが、このたびのyoutubeの動画です。
ご覧になればわかると思うけど、フェイクも含め一発録りでこのクオリティー、23歳にしてこの歌唱力、処女作にしてこの完成度。
今回のPVは前回の中山来未にも増しての経済撮影につき、制作費0円、スタッフ0人の撮りっ放し映像ですが、彼は近い将来、破格の制作費をつぎ込んだ豪華なPVに出演するアーティストになるだろうと確信してるので、あえてデビュー前っぽい動画に仕上げました。
業界関係の方々、橋本佳明をなにとぞよろしくお願いいたします。
このたび、ある筋からの紹介で中山来未(くるみ)という女子のPVを制作することになりました。
PVの楽曲はクレヨン社の5thアルバム「模型風景」の収録曲「VOICE」。
クレヨン社が「VOICE」を発表したのが1994年、中山来未が生まれたのが1995年、時代は流れ世代が変わりまた作品が生まれる。なんとも感慨深いものであります。
中山来未は、女優、歌手、ダンサーとしての魅力と実力を競い合う「ザ・ラストヒロイン」というオーディション番組で15万人以上の応募者の中から、見事、ラストヒロインに選ばれた、多才で勘が良くセンスの良い女子です。
そんな才能豊かな彼女が、クレヨン社の曲をカバーし、監督(私)の得意とする隠密(ゲリラ)撮影に躊躇することなく、その勘とセンスとパワフルさを発揮してくれたのでした。
🔶以下撮影当日(2017年9月某日)のタイムスケジュール
●終電過ぎ、キャストスタッフ監督宅集合、
スタッフ打ち合わせ、照明テスト、リハーサル
●丑三つ、人気のなくなった川口駅デッキへ密かに移動
隠密撮影開始、合言葉は「さっさと素早く!こっそり目立たず!」
●夜明け前、撮影終了
なぜか松屋の牛めしで打ち上げ、始発が動き出したら各々解散。
撮影を終え、私は彼女が近い将来大物になると確信しました。
今後も中山来未を見守っていきたいと思います。
2017年4月1日、このブログではお馴染みのShunnくんをはじめ、川口のおばさん+おじさんコーラス隊、ミュージシャン、俳優など、木下恵と仲の良かった友人たちが川口リリア集まってくれました。
彼女を偲んで木下の好きだった歌を彼女に捧げるためです。
クレヨン社の「夕映えのグラウンド」を木下恵に捧げようと思いついたのは、前の記事で柳沼が書いてくれた通りです。
http://blog.ap.teacup.com/crayon/225.html
柳沼の言うとおり、まさに私の新たな一歩を踏み出す日となりました。
私は去年の彼女の再発から闘病記録を撮影しました。
しかし、その映像素材を未だに見ることができませんでした。
でも、今回の4/1の撮影を機に、闘病中の映像を見直し「受容」という過程を歩んでいくつもりです。
そしていつの日か、このたび公開した「夕映えのグラウンド〜めぐみファイト!〜」をエンディング映像としたドキュメンタリーを完成させる予定でいます。
私は映像作品をつくるとき、制作意図を理解してもらうために、キャストスタッフに向けてメールマガジンを発行してます。
この「夕映えのグラウンド〜めぐみファイト!〜」を作る際に参加していただくみなさんに発行したメルマガ増刊号・その6を以下に添付させていただきます。
なぜ「めぐみファイト!」なのかを書いた号です。
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増刊号その6「夕映えのグラウンド〜めぐみファイト!〜」
●「頑張る」ということ
「頑張れ」という言葉が、病んでる人にとって心に突き刺さるらしいことは僕も承知してます。
がん治療をネット検索すれば「患者よ、がんと闘うな」「がん専門医は抗がん剤をやらない」など、頑張らない宣伝文句を謳った書籍の広告が必ず目に入ります。
がん治療に研究熱心だっためぐみも必ず目にしてるはずです。
では、こんな宣伝文句が、めぐみのようにがんばりたい患者の心に突き刺さることは考えてないのか?
闘病中、こんな宣伝文句を見つけるたび、僕は頑張ってるめぐみを横目に、激しい憤りを感じてました。
「頑ばりたくても 頑ばれなくなった時を恐れて、頑ばんないなんて…ばかでしょ。」
上記がフォトフレームに入るメッセージで、添付されている画像がめぐみ直筆のメモです。
手帳と一緒にいろいろな紙に書かれためぐみのメモの束を見つけました。
日常思いついたことや、レシピや詩などが整理されないまま大量に残されていました。
「頑張りたい」シリーズは他にもたくさんあったけど、いちばんめぐみの気持ちをクールに書いてる添付のメッセージを選びました。
めぐみは頑張りたかったのです。
メッセージに書かれてるように、めぐみが恐れていた頑張りたくても頑張れなくなったときが訪れたのは、亡くなる2日前の2016年9月22日でした。
頑張れなかった時間はわずか2日間です。
それまでは、メッセージに書いてある通り、最後の最後まで生きることをあきらめることは一瞬たりともありませんでした。
もちろんめぐみは死も覚悟していました。
実に潔い遺書も書きました。
めぐみの人生においての最大のプライドが、いついかなるときも最後の最後まで「頑張る」だったのです。
「頑張らなくていい」で救われる人もいます。
「頑張れ」で生きる勇気が湧いてくる人もいます。
めぐみは僕が「頑張れ」というと、いつも「オー!」と言って喜びました。
闘病中、もっと「頑張れ」と言ってあげればよかったと思ってます。
でも可哀そうすぎてなかなか言ってあげられませんでした。
ほんとうに可哀そうなときは言えないし撮れない。
だからみなさんに「声の限り」に「友」にエールを送っていただきたいのです。
きっとめぐみは「オー!」と言ってくれます。
前回の柳沼が書いてくれたように、クレヨン社事務局を支え、アルバムの通販を担当していた木下恵が亡くなりました。
亡くなって4カ月が過ぎようとしていますが、一向に前向きになれない私に替わって、柳沼が前向きに歩き出す第一歩として、先に書き込んでくれました。
以下に添付するのは、木下恵が亡くなったことを知らせるべき友人や知り合いに宛てたメールです。
クレヨン社と共に生き、クレヨン社を愛し、クレヨン社の作品を愛し、そしてクレヨン社ファンを心から愛し、最後まで懸命に生き抜いた木下恵を、クレヨン社ファンのみなさんに知っていただきたく添付します。
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このメールは私のアドレス帳から、木下恵と親交のあった方のアドレスに一人づつ送信させていただきます。
木下恵は、2016年9月24日午前9時12分、戸田中央総合病院にて亡くなりました。
56年と7ヶ月の人生でした。
そして彼女らしい最期でした。
木下恵は10年前に乳がんを発症し、術前抗がん剤治療後に切除手術を受け、再発予防の治療と定期検診を続けながらも元気に過ごしてきました。
ところが、今年春ごろから続く咳や腰痛から、精密検査を受けたところ、再発していたがんが、すでに多臓器に転移していることがわかりました。
それでも彼女は体の続く限り、国立がんセンター中央病院に入院通院を繰り返しながらギリギリまで仕事を続け、懸命に治療に取り組んできました。
しかし、容態は日々悪化する一方で、再発確認から4カ月後の9月21日の夜に容態が急変し、22日に救急搬送、23日をなんとか持ちこたえてくれたものの、ついに力尽き、翌朝、私が見守るなか、静かに息を引き取りました。
木下恵が亡くなる2ヶ月前に書いた遺書の内容を要約して、以下に記します。
●自分が死んだときは、一切の宗教行為なしの直葬にして、参列は私(加藤秀樹)と妹のみとすること。
●知らせなければならない人には、火葬後に知らせること。
●家には仏具等を一切置かないこと。
みなさんの中には臨終に立ち会えなかったことや、葬儀に参列できなかったことを残念に思ってる方がいらっしゃるとは思いますが、彼女は自分のことで、みなさんに心配や負担をかけることを人一倍嫌がる性格であったことを、ご理解いただくようお願いいたします。
木下恵の遺志通り、9月26日に荼毘に付し、そして木下恵の遺志通り、こうして火葬後に、彼女が亡くなったことを、みなさんにお知らせさせていただいております。
私としては、木下恵の映像素材を集め、みなさんに彼女を偲んでいただく機会を作りたいと考えていますが、今は映像を見返す気力すら湧きません。
でも、きっと立ち直って、彼女を偲ぶ機会を作ってみせます。
そのときは改めて連絡をさせていただきます。
彼女の遺書の最後は以下の言葉で締めくくられていました。
「今まで出会ったすべての人たちのおかげで、私の人生がとても幸せだったことを伝えてください。そして、ありがとう、と伝えてください。2016.7.25 木下恵」