1988年 デビュー
1999年 活動休止
2004年 クレヨン社ってまだいたの?
2010年 クレヨン社はここにいる。
2020年 公式 クレヨン社は『まだ』ここにいる。
以降、細々と現在に至る。
クレヨン社年表(随時更新します)
1986年
『かぎとりぼんのはなし』リットーミュージック第5回オリジナルテープコンテスト奨励賞受賞
1987年
『辻ヶ花浪漫』AXIAミュージックオーディショングランプリ受賞
1988年
『かぎとりぼんのはなし』オムニバス『東京新波1988』にてプレデビュー
『痛み』デビューシングル発売「エンゼル・コップ」エンディング曲
1stアルバム『オレンジの地球儀』同時発売
ラジオ福島レギュラー番組「オレンジの地球儀」放送開始
『痛み』「歌う天気予報」オンエア
「キャッチアップ」出演
いわき明星大学学園祭ライブ
渋谷TAKE OFF7ライブ
1989年
渋谷Egg-manライブ
『少年の時間』シングル発売
ニッポン放送「オールナイトニッポンぶっとおしライブ」出演
日清パワーステーション ライブ
2ndアルバム『地球のうた』発売
日本テレビ系24時間テレビ“愛は地球を救う手塚治虫遺作アニメ「ぼくは孫悟空」エンディング曲
福島県立湯本高校 芸術鑑賞会コンサート(いわき市民会館大ホール)
東京芝abcホール コンサート
『地球のうた』シングル発売
広島・大阪ライブ
日本青年館コンサート
渋谷Egg-manライブ
地球環境国際シンポジウム レセプションライブ
1990年
ラジオ福島 レギュラー番組「今夜は気ままに」放送開始
「アースディ」コンサート参加
全国ライブツアー1(仙台・福岡・名古屋・東京・大阪“地球のうた”ツアー)
ダイエー主催 沖縄OKUMAビーチ コンサート
3rdアルバム『いつも心に太陽を』発売
CDでーた主催 日清パワーステーション ライブ
『いつも心に太陽を』『辻ヶ花浪漫』NHK総合「まんがで読む古典“雨月物語”」の主題歌としてオンエア
『Broken Heart』シングル発売(TBSドラマ「愛してるよ先生」主題歌)
ラジオ福島レギュラー番組「ニュー・アコースティック・サウンズ」放送開始
NHKFM「ビートインテン」出演
『いつも心に太陽を』3rdアルバムピアノ楽譜発売
『東京夜景』シングル発売
パルコ劇場コンサート
日清パワーステーションライブ
全国ライブツアー2(福岡・大阪・名古屋・仙台)
スペースゼロ コンサート
FM仙台レギュラー番組「少年の時間」放送開始
ニッポン放送系「チャリティミュージックソン」出演(青森)
NHKFM「リクエストアワー」出演
1991年
東京シアターコクーンコンサート
大阪リサイタルホールコンサート
KBSチャリティーイベント「カタツムリ大作戦」出演
ニッポン放送「伊集院光ポップン王国・ミュージックスタジアム」レギュラー出演 (加藤秀樹のみ)
『手の中の魔法』NHK「みんなのうた」オンエア
『手の中の魔法』シングル発売
4thアルバム『世界で一番好きだった』同時発売
『地球のうた』日本テレビ系「徳光の地球時代」エンディング曲
全国ライブツアー(札幌・福岡・大阪・名古屋・仙台“世界で一番好きだった”ツアー)
福岡・鹿児島・静岡・宮崎 ビデオライブツアー
赤坂草月ホール コンサート
NHKFM「ビートインナイン」出演
1992年
『さよならボーイフレンド』シングル発売
ベストアルバム『クレヨン社の展覧会』1988-1991 BEST SELECTION』発売
『青空観覧車』シングル発売(セシール幼児通信教育講座 のびのびクラブ イメージソング)
高知放送 レギュラー番組「クレヨン社 高知を行く」放送開始
3都市ライブツアー(大阪・名古屋・東京“ライブハウスで逢いましょう”ツアー)
ニッポン放送「裕司と雅子のガバッといただき!!ベスト30」 アナウンサー小俣雅子さんの代打として出演 (柳沼由紀枝のみ)
ニッポン放送「裕司と雅子のガバッといただき!!ベスト30」三宅裕司さんの代打として出演 (柳沼由紀枝のみ)
1993年
ベストアルバム『The Best ll』発売
1994年
5thアルバム『模型風景(ジオラマ)』発売
ラジオ福島レギュラー番組「クレヨン社の名曲探偵団」放送開始
1995年
ラジオ福島 レギュラー番組「クレヨン社の課外授業」放送開始
1996年
渋谷TAKE OFF 7 シーズンライブ(7月/10月/12月)
1997年
NHKBS2「BS 20世紀 日本のうた 抒情歌名作選」 出演
渋谷Egg-man シーズンライブ(3月/7月/11月)
NHKFM「HOTリクエスト」出演
テレビ山口「ふるさとCM大賞」出演
1998年
渋谷Egg-man シーズンライブ(3月/4月/10月)
1999年
渋谷 Egg-man ライブ
『地球のうた』手塚治虫ワールドBest of Best24時間テレビ〜愛は地球を救う&ユニコ〜オリジナルサウンドトラックCD収録
クレヨン社活動休止宣言
2000年
2001年
2002年
2003年
クレヨン社活動再開宣言
活動再開(オフィシャルサイト開設)
2004年
クレヨン社アルバム通販サイト開設
6thアルバム『誰にだって朝陽は昇る』発売 (発売中)
2005年
ラジオ日本「フリートーカー・ジャック」出演(加藤秀樹:2話オンエア/柳沼由紀枝:6話オンエア)
2006年
映像制作の開始
2007年
7thアルバム『宙[Sola]』発売 (発売中)
2008年
『A Song For The Earth 2008』クリエイティブアワード2008 特別賞受賞
『ハヤシライス』 SKIPシティ国際Dシネマ映画祭2008短編部門ノミネート
『嘘』 東京ネットムービー優秀賞&スクリーニングオーディエンス賞受賞/第12回小津安二郎記念蓼科高原映画祭入/パル映画祭準グランプリ受賞
2009年
『おっぱい』第6回北信濃小布施映画祭シネマコンペティション北斎賞受賞
『自毛デビュー』第31回東京ビデオフェスティバル優秀賞受賞/第3回鎌倉映像フェスティバル入賞/第1回奄美映像フェスティバルドキュメンタリー部門グランプリ受賞
2010年
『キュポラ』第5回デジタル岡山グランプリ準グランプリ受賞/第14回小津安二郎記念蓼科高原映画祭入賞
『カンパネルラ』東京ビデオフェスティバル2011入賞
2011年
『嘘〜オブラートの月』ショートショートフィルムフェスティバル2011旅ショート部門オーディエンスアワード受賞/第15回小津安二郎記念蓼科高原映画祭入賞/第2回伊勢崎映画祭伊勢崎市長賞受賞
『FtM〜僕はまだ自分を呼ぶ言葉を知らない』東京ビデオフェスティバル2012入賞/第23回調布映画祭入賞/第22回東京国際レズビアン&ゲイ映画祭
2012年
『進め一億火の玉だ!』第3回武蔵野映画祭入賞/西東京市民映画祭2012入賞/東京ビデオフェスティバル2013入賞
『淋しい太陽』福井映画祭2012入賞
2013年
『おまけ』第3回伊勢崎映画祭入賞/あつぎ映像コンテスト2012準グランプリ受賞/高砂しあわせ映画祭神戸新聞社賞受賞
『ランチボックス』富山水辺の映像祭2013審査員特別賞受賞/あつぎ映像コンテスト2013協賛企業賞受賞/東京ビデオフェスティバル2014入賞
2014年
『おいしい北区』第3回北区CMコンテスト審査員特別賞受賞
2015年
『川口クワイヤガールズ』東京ビデオフェスティバル2015入賞
2016年
クレヨン社事務局通販担当、木下恵、逝去
2017年
『僕らの終戦』東京ビデオフェスティバル2017入賞
2018年
『NOCTOVISION』フクイ夢アート招待作家作品/東京ビデオフェスティバル2018入賞
2019年
『めぐみ、ファイト!』東京ビデオフェスティバル2019グランプリ受賞/東京ビデオフェスティバル2019特別賞受賞
2020年
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CM音楽 (Vo 柳沼由紀枝)
セシール/ニッポン放送「歌謡パレードニッポン」/オールナイトニッポンジングル/白十字社ラジオCM/メガネドラッグTVCM/高島屋'93お歳暮TVCM/ビゲンヘアマニキュアCM/ニッポン放送「日石三菱サンデーステーション」
CM音楽 (加藤秀樹)
自治省/住友ホーム/タカラ本みりん/三菱重工/日通プロコンポ/シャープ/世界都市博/バンプレスト/九州電力/小田急百貨店/他
テーマ曲等(加藤秀樹)
ショーアップナイターテーマ/手塚治虫ワールドテーマ/NTT Jリーグ情報/三重県宮川村村民歌作編曲/奈良県御杖小校校歌編曲/夢テクドリームナイト音楽プロデュース/北九州博覧際フェスタリオン音楽プロデュース/他
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少年時代 |
ひょっこりひょうたん島 いつも、「大人になったら何になりたい?」と聞かれて、「ダンプカーの運転手!」としか答えてなかった僕が、テレビでバイオリンを弾いてる人を指差し、いきなり「あれになりたい!」と言ったそうだ。幼稚園のころの話である。音楽好きの親父は喜んで、頼みもしないのに翌日8分の1のバイオリンを買ってきてしまった。そしてあれよあれよという間に近所のバイオリンの先生のところへ通わされてしまったのだった。 その先生は結構なおじいちゃんで、弾くフォームにとても厳しかった。 しかも、僕はある程度たつと耳で憶えた「鉄人28号」や「エイトマン」が弾けるようになっていたのに、いつまでたっても「キラキラ星」しか教えてくれないのである。 そんなある日レッスンに行ったら、先生は不在でテレビがついており、NHKの「ひょっこりひょうたん島」が始まった。僕は何気なくテーマ曲に合わせて「ひょっこりひょうたん島」を弾いていると、先生がやってきた。「コラ!そんなもの弾くとバカになる、やめろ!」僕は思いっきり怒鳴られた。 ますます僕はバイオリンが嫌いになった。それからあれこれとバイオリンをやめる方法を考えたが、あるとき何かのはずみで「バイオリンは嫌だけど、ピアノならいい」と言ってしまった。すると両親は僕のために、本当にピアノを買ってしまったのである。 こうして僕は首尾よくバイオリンはやめられたものの、高価なピアノはおいそれとやめられるはずもないのは子供心にもよくわかった。 しかたなしにピアノの練習は続けたが、ピアノの練習はバイオリンに負けず劣らず実につまらなかった。だいたい教則本が間抜けだった。曲がつまらないのである。 たまに発表会で弾ける名曲ぞろいのピアノピースは唯一の楽しみだったが、ふだん練習しなきゃならないツェルニーとかハノンとかいう、子供いじめが好きな変態作曲家はいつもぶんなぐってやりたい気持だった。 トルコ行進曲 曲がつまらないので相変わらず練習は嫌いだったのだが、その反動だろうか、いい音楽を聞くのは好きだった。それもクラシックが大好きな子供だった。最初に感動なるものを憶えたのはベートーベンの「トルコ行進曲」である。 子供向けレコードに入ってるその曲を、レコードがダメになるまで、毎日果てしなく繰り返し聞き続けた。 そのレコードは曲の始まる前に、岸田今日子のようなおばさんの低い声で解説が付いていた。 「トルコの兵隊さんたちが、遠くから、だんだん、だんだん、近づいて、そして、目の前を通り過ぎ、だんだん、だんだん、遠くへ行く曲です」 僕はこのおばさんの「だんだん、だんだん」という言葉を聞くたび怪しい興奮に包まれ、もうすでに胸が高鳴るのだった。 そして曲が始まる。トルコの兵隊さんたちが「チャーラッチャッチャッ、チャーラッチャッチャッ」と近づいて来るのである。僕はおばさんの言葉どおり「だんだん、だんだん」興奮してくる。やがて「チャンチャカチャーカ!チャンチャカチャー!」とマイナー調のフォルテシモで目の前をに迫って来るときは、必ず全身で興奮していた。さらに、転調して、テーマに戻る直前の「チャーラッ!チャーラッ!チャーラッ!チャーラッ!チャーラッ!チャーラッ!チャーラッ!チャーラッ!」とたたみかけながら、リットするところでは、(今の感覚に例えるなら)今にもイキそうな感覚に陥いった。さらに「チャーラッチャッチャッ!チャーラッチャッチャッ!」とアテンポしてテーマに戻った瞬間、「イッた〜!」と全身で喜びを噛みしめた(チビッてしまったこともある)ものである。 そして徐々に遠ざかる兵隊さんたちと一緒に僕の興奮もクールダウンするのだった。 そしてそれを何度も何度も繰り返し聞いたのである。 星条旗よ永遠なれ しかしそのころ、僕はこの興奮しやすい鑑賞癖が怪しい秘め事のように思えてとても恥ずかしかったのである。僕は常にこの悪癖を悟られまいと注意するのに苦労した。でも、僕の通ってた小学校では、よく校内放送でクラシックを流すのである。 掃除の時間に流れる、ビゼーの「アルルの女」のフルートを聞くと訳もなく泣きそうになるのをごまかすのが大変だったし、昼休みに流れるメンデルスゾーンの「春の歌」は体がひとりでふにゃふにゃ動いてしまって困った。 中でも一番困ったのは不意打ちである。小学校2年の運動会の行進の練習の出来事だった。いきなり、はじめて耳にするマーチが大音量で校庭に流れた。 「ちゃーんちゃーら、ちゃっちゃーちゃ、ちゃ、ちゃ、ちゃ、ちゃ、ちゃ!」スーザの「星条旗よ永遠なれ」である。 僕はこの三三七拍子のようなイントロだけで不覚にもイキそうになった。 しかもその後に続く、Aメロがイントロをしのぐ大迫力で襲いかかり、「もうダメだ〜!」と思った瞬間、ブラスの低音の合の手が入る。これが憎らしいほどカッコいい。とたんに僕はあっけなくイッてしまった。「わかったもうやめてくれ〜!」と心で叫ぶにもかかわらず、サディスティックなスーザは攻撃の手を緩めない。これでもかと威風堂々としたBメロが僕にとどめを刺した。 僕はとうとう行進しながら声をあげて泣き出した。周りのみんなが心配し、僕は先生に保健室に連れて行かれた。 交響曲第5番 こんなふうに幼くして性的興奮にも似た音楽鑑賞癖を持つ子供だった僕が、ますますクラシックにはまり込んだのは言うまでもない。そして小学校3年のとき始めて自分でレコードを買った。ベートーベンの5番である。これを聞いたときの衝撃はトルコもアメリカも何するものぞであった。有名な1楽章をもくろんで買ってみたのだが(1楽章も和風でコシがありそれなりにすごいが)それに続く2楽章で僕は気を失いそうになるくらいイッてしまったのである。 1楽章の劇的な幕切れの後に奏でられる2楽章のテーマは、天使が降りてきそうなくらい美しい旋律で始まる。 そのテーマを徐々に徐々に展開しながら、あくまでも優しく静かに2楽章は盛り上がってくる。僕も徐々に徐々に興奮しながら、あくまでも優しく静かにイキそうになり、ついにはいつイッてもおかしくないくらいパンパンに興奮してくる。 その絶妙なころあいを見はからったように、2楽章は一気に炸裂する「ジャン!ジャン!ジャン!ジャン!ジャン!ジャン!ジャン!ジャン!」ただひたむきに力強く、そしてひたすらひたむきに力強く、高音部のストリングスが8分音符の和音を刻み続けるのだ。そして低音部のストリングスは攻守入れ替わり2楽章のテーマを16分音符で暴力的にまで弾きまくるのである。 そしてこの瞬間、死を覚悟した雄鮭の射精のように、僕は大きく口を開けて思いっきり果てるのだった。 ベートーベンは僕が果てた後のフォローも忘れない。再び優しく美しいテーマで僕を包み込み、激しい3楽章を予感させる清楚な2楽章のエンディングへいざなうのである。 僕はこの5番2楽章こそが、静と動、優しさと激しさ、美と醜、秩序と破壊、そしてエロスとタナトスが混在する、生きとし生けるものの性エネルギー集大成に思えた。 次に衝撃的な音楽の出会いをしたのは小学校の高学年の頃だった。 年の離れた高校生のいとことテレビを見ていたら、なんとも美しいストリングスの旋律が流れてきた。森光子主演のドラマ「おふくろの味」のテーマ曲である。 「これ何ていう曲?」とっさに僕はいとこにたずねた。いとこは高校でブラスバンドの部長をつとめる音楽好きだった。 「ヘイジュード」と、いとこは奇妙な曲名を答えた。(そのヘイジュードはポールモーリアというオヤジが自分の楽団に編曲して演奏させたものだということが後になってわかった。) 「誰の?」と僕。 「ジョンレノン」(ほんとは作曲はポール、ジョンは作詞) 「それって誰?」 「ビートルズ」 「………。」 このときの衝撃は今でも忘れない。 そのころビートルズはすでに解散していたけど、僕の意識ではビートルズと言えば、バカになる感染力が最も強い音楽のはずだった。なにしろ幼稚園のころに「ひょっこりきょうたん島」でバカになることを洗脳されたまま育った少年である。ビートルズなんぞはとんでもない大バカ者である。 ビートルズとやらに毒されて髪を伸ばして奇声を発するバカ男やら、それをキャーキャーと叫ぶ大バカ女達を冷ややかな目で見てきた少年である。 なんで、そんなバカ者の頂点に立つビートルズが、こんな美しい曲を作るのだ!僕はほんとうに信じられなかった。 それから間もなく、僕は見事にバカ者の頂点ビートルズにハマった。 その後、僕はバカなビートルズと、りこうなクラシックを同時に愛せる少年となった。 さらにバカとりこうを掛け合わせるポールモーリアのような「編曲家」なるものにも大いに関心を抱くようになる。 この音楽の好みは今も変わらない。(成長しない) そしてこのアグレッシブだった音楽生活も小学生で一旦終わりを告げる。 小学校のころはブラスバンドに入れさせられ、いろんな楽器を吹かされたけど、中学校は音楽には力を入れておらず、部活動に音楽っぽいものは一切無かった。しかも中学になって幼稚園から続いてたピアノのレッスンも辞めた。(やっと親が辞めさせてくれた) そんなわけで、中学から僕は楽器に触れる機会が激減し、音楽からだいぶ遠のいた。 でも寂しい気持ちはちっともなかった。そのかわり、音楽を聴くことに意欲を燃やし始めた。FMfanで好きな音楽をチェックし、カセットに録音して繰り返し聞くのが僕の日課となった。ビートルズのおかげでストライクゾーンがかなり広がったため、そのころのテープにはバッハとディープパープルが同居していた。 音楽ばかり聴いてるので親からはずいぶん叱られたが、また隠れてひっそり聴くのも怪しくて楽しかった。 高校になってもこのリスナー生活は変わらなかったが、丸刈りから解放されて、憧れ?のビートルズヘアー(思いっきり時代遅れ)を決め込み、だけど思いっきり硬派をきどってケンカをふっかけて歩き、ちっとも勉強することはなかった。しかし3年ともなると進学のことで家族がうるさく言い始めるようになる。 そのころ姉は上京して美大生だったし、親父も絵描きだったことから「お前も美大だったら入れるんじゃないか?」と安易に勧められた。僕もその気になってデッサンを始めたが、親父は絵を描きながらの音楽鑑賞は容認してくれたので楽しくデッサンは続けた。 デッサンの腕は上がったものの、頭がついてこれなかったようで、美大には落ち、僕は上京して浪人生活へと移ることになった。 田舎者が都会へ行くと見るもの聞くものすべてが新鮮である。勉強やデッサンどころではなかった。しかも、うるさい親がいないぶんFMは聞き放題である。 そもそもFMのヘビーリスナーになった中学のころから僕はオーディオに(←ここの文法が間違ってたようです。教えてくれた方ありがとう)興味を持ち始めていた。そんなふうにメカに興味が及ぶと、一人で音を重ねて音楽を作る(多重録音)ことにも大いに興味が及んでくる。 しかし今のように一般にMTR(マルチトラックレコーダー)は普及しておらず、あったとしてもプロ機種でしかも、たった4チャンネルが何十万という世界なので、とりあえずは夢ということにしてあった。 ところが予備校の友人がマイクミキシング機能付きのカセットデッキを持ってることがわかった。僕がうらやましがると、彼はそのデッキをあっさりと僕に貸してくれた。 これが次なる衝撃的出会いだった。早速僕はそのデッキをアパートに持ち込み録音を始めた。まずギターの弾き語りを録音したら、そのテープを自分のデッキで再生し、それを借りたデッキで録音しながらミキシング機能を使って、歌をハモったり、ギターソロを入れたりして遊んだ。(いわゆるピンポン録音) そのうちギターや歌だけではつまらなくなり、てごろなハーモニカやリコーダーを買ってきて音を加えた。それでも物足りなくなり、おもちゃのピアノまで買ってきては録音に励んだ。 そんなふうに予備校にも行かず録音で遊んでいるうち、また受験シーズンがやってきた。当然また落ちた。 美大受験は3浪4浪はざらだが、僕はここであっさり美大受験をあきらめた。浪人中にハマってしまった多重録音をより楽しむためである。 僕は親の猛烈な反対を押し切り、レコーディング技術が学べる専門学校を見つけ入学してしまった。 実際通ってみると授業は実につまらなかった。しかし実習と称して行うグループ単位の録音や番組作りは燃えた。僕は実習では必ずディレクターという役を勝ち取り、率先して作品作りにあたった。自主制作でラジオドラマや8ミリ映画にも挑戦した。脚本も自分で書いた。そして作品作りのおもしろさを初めて味わった。 そんな学生生活の中、また新たなる衝撃的出会いを経験する。 次なる出会いは、ヤマハのエレクトーンD-800である。 そのころの友人の住むアパートの最寄り駅近くに大きなヤマハ特約店があった。ある日その友人宅に向かう途中、その特約店の前で「レモン1個キャンペーン」なるものをやっていた。新機種のエレクトーンを試奏するとレモンを1個くれるというものだ。約束の時間にちょっと早かったこともあって、ふらりと寄ってしまった。 そしてこれが衝撃的かつ運命的出会いとなる。 そのヤマハの新機種D-800なるエレクトーンは、多重録音好きの僕の音楽観を一新したと言っても過言ではない。 まずはリアルで豊富な音色にびっくりして、次にリズムやコードやベースなどのシーケンス機能に我が耳を疑った。「こんなものがこの世に存在するのに、何でオレは今までピンポンの多重録音なんぞをチマチマやってたんだろう・・・」と後悔しながらD-800を弾きまくっていたのを憶えている。 ふと気づくと僕の後ろには店員や客が大勢集まって僕の演奏に聞き入っていた。 急に恥ずかしくなってそそくさと帰ろうとすると案の定、数人の女性店員に呼び止められていろいろと事情聴取された。 僕がエレクトーンを初めて弾いたことを知ると、みんな僕の弾きっぷりに感心したようで口々褒めちぎられた。僕は褒められると図に乗るタイプである。まずは「あなたなら教室に通えばすぐに講師の資格取れるわ!」の言葉に乗せられ、早速翌週からエレクトーン教室に通い始めたのだった。 さらに親にうまいこと言って頼み込んで、エレクトーンを買ってもらい(D-800が欲しかったのだが、さすがに高すぎるので、弟分のC-200で我慢した)アパートの六畳間でヘッドホンを付けて昼夜問わず弾きまくった。
弾きまくった甲斐あってか、3ヶ月でエレクトーン講師免許なるものを所得した。 折しも就職活動の時期だった。仲間たちは就職活動に奔走していたが、僕はとっくにいわゆる業界への就職は諦めていた。入学のころは音楽や映像制作の仕事就いてみたいと思ったけど、業界の就職はかなりの難関で「・・・もし就職できたとしても、アシスタントエンジニアや、フロアディレクターという鬼畜以下の扱いを薄給で耐え忍び、それを耐え抜いた一握りの人間のみが・・・云々」という話を講師陣から散々聞かされていた。 僕には全くその根性が無いのはわかっていた。 そこでそのころ講師達からの評価が高く、仲間からも評判の良かった台本や脚本を書くことを仕事にしようと考えていた。 ・・・卒業したらこのまま東京でバイトでもして、エレクトーンで音楽作りながら、脚本書いて、フリーの脚本家になって、うまいこと業界に潜り込んで、いつのまにか音楽や映像のディレクターになって・・・ そんなわけで、就職活動を全くしなかった僕は、自慢のエレクトーンで他のクラスの卒業制作の番組や舞台のBGMをこしらえたり、自主映画やラジオドラマの制作で大忙しだったし、皆からも信頼され期待され、大いに充実した日々を送った。今振り返っても自分が一番輝いてたんじゃないかと思える。 しかし輝く時期はそう長くは続かない、卒業が迫ってきた。仲間ともお別れである。仕方ないので当初の計画通り、脚本家を目指す生活を支えるためのバイトを探すことにした。 ちょうど学校の求人欄に、僕のアパートの近所のオーディオ機器の修理会社の社員募集が載っていた。バイトの方が良かったんだけど、アパートから歩いて通える距離だったので(アパートは大森北、会社は平和島)あっさりと入社してしまった。 というわけで、僕は社会人1年目を学生時代と同じアパートから始めることになった。 バイト感覚だったので、特に気負いも無く無難に仕事を続けていたのだが、突然2週間めでその仕事が嫌になった。一旦嫌になると嫌度は日増しにますばかりで、その会社はおろか、その通勤路や住んでるアパートや東京までもが嫌になり、生涯始まって以来の落ち込みを経験して、ひと月にも満たないうちに会社を辞めた。
しかし辞めたからといってその落ち込みから解放されるわけでもなく、アパートで一人悶々としていた。そのときの心理状態を今でもうまく説明できないけど、5月病のようなものだったのだろうか?とにかく何もかも嫌になっていた。 そんな中で僕の出した結論は「きっとオレは東京というところが合わないんだ。田舎へ帰ろう!」 そしてこの結論こそが、柳沼と出会い、クレヨン社結成の第1歩となる。 田舎へ帰るのはいいけど、仕事は何をしよう・・・と考えたとき思いついたのが、僕の唯一の資格であるエレクトーン講師免許だった。 ![]() 社長の話はこうだった。「男で講師免許を持ってる人は珍しいので、ぜひ君には講師ではなく社員として、若い女性講師たちと交流を深めながらのまとめやくと、音楽教室の運営を任せたい」との話だった。 そしてそのときたまたま居合わせて紹介してくれたエレクトーンとバイオリンの講師はえらくきれいな女性だった。僕はその場で就職を決めた。以下「クレヨン社夜明け前」へと続く・・・。 |
クレヨン社夜明け前 |
ちっとも若い女のエレクトーンの先生方たちとの交流は巡ってこないばかりか、毎日ピアノ運搬と店番に明け暮れることになる。 いつものように加藤が2階のLM(ライトミュージック)売り場で店番をしていたときのことであった。机の上の一枚のポプコン(ヤマハの主催するポピュラーソングコンテスト)応募用紙が目にとまった。 当時ポプコンは地元の楽器店単位で応募受付をしており、応募用紙には歌詞を書き込む決まりとなってた。 何気にその歌詞に目をやった加藤は驚いた。その字があまりにもヘタクソでガサツだったからだ。 しかし、読み進めるうちに加藤はもっと驚いた。バンドブームも手伝ってか、そのころポプコンに応募してくる歌詞は、内容の乏しいものばかりだったが、その歌詞はあまりに秀逸だったからである。 応募用紙には、柳沼由紀枝、17歳、作品名「絵のない絵本」(この曲は2ndアルバムに収録されている)と書かれていた。 早速加藤は柳沼に会ってみたくなった。こんな歌詞を書く17歳の少女はどんな娘か興味がわいてきたのである。 二人の出会いの日はその翌日、意外(←「いがい」の字が間違ってました教えてくれた方ありがとう)にもあっさり訪れた。 柳沼が楽器店に注文しておいた品を取りに来たのだ。 「柳沼さん?…というと、これを書いた柳沼さんですか?」と加藤はポプコン応募用紙をとり出し、恐る恐る尋ねてみた。 「そーです!」と元気に答えた柳沼は、彼女が書く字と同じようにガサツな女子高生だった。 「これってどんな曲?」加藤は店内に人気のないのを確かめて、もう一度尋ねた。 すると柳沼は断りもなく店の売り物のギターを引っぱり出し、初対面の加藤に向かって臆することなく「絵のない絵本」を歌いだしたのである。 ![]() 彼女の歌は、もはや彼女の字のように、ヘタクソでもガサツでもなかった。 そして加藤はこの素直で透明感のある声とメロディーラインにすっかり魅了されてしまったのだ。 加藤はこのとき「このガサツな女子高生の才能を育てたい」と本気で思ったのだという。 しかし、思うだけで何も行動に移さないのが加藤の悪い癖だった。 月日は流れ、やがて柳沼は女子高を卒業し上京することになる。 そして柳沼が最後に店を訪れたとき加藤が聞き出した彼女の上京先が、やがて訪れる二人の再会の鍵となるのであった。 もちろん歌は続けるつもりだったが、専門学校のカリキュラムはかなりタイトで、毎日のように課題に追われていた。ギターさえ触れることができない日々が続いたという。 一方、地元の楽器店で2年目を向かえた加藤は、ちっとも変わらない環境に嫌気がさし、とび出すように店を辞めてしまった。 行くあてのない加藤はとりあえず東京の姉のアパートへ転がりこむことになる。 加藤はいくつものアルバイトを転々としたが、あるミュージックテープの制作会社に落ち着いた。 まだ新しかったその会社では音響技術の知識がある加藤は重宝がられ、アルバイトにもかかわらず、現場をまかされるようになった。 ミュージックテープの業界ではそのころ「音声多重」というカラオケテープが全盛だった。 片チャンネルにオケ、もう片方のチャンネルに仮歌が入っており、仮歌を聞きながらカラオケの練習に励むことができるという当時は画期的な代物だった。 ![]() 加藤はその仮歌録音を担当していたが、スタジオではポップスを歌ってくれる女性ボーカリストを探していた。 そのとき頭に浮かんだのが柳沼由紀枝だったのだという。 久しぶりの再会であった。 そのころの柳沼はデザイン学校を卒業し、CI(コーポレーションアイディンティティー)やロゴマークなどをデザインする当時最先端のデザイン会社で働いていた。そのかたわら地道ながらも弾き語りの音楽活動を続けているのだという。 さっそく仮歌を録音してみると、柳沼の歌唱力は健在だった。ポップスはもちろん、演歌や童謡まで彼女は器用に歌いこなし評判も上々だった。 ちょうどそのころ、加藤にヘッドハンティングの話が持ちかかる。小さな録音スタジオをまかせたいというのである。 当時の会社への義理もあり加藤はだいぶ悩んだが、新しい録音機材を揃えてくれるという条件で、加藤は引き受けることにした。 本人を含めて二人だけの小さな会社だが、若くして加藤は社長と呼ばれるようになった。 柳沼もCIの会社から、カバンのデザインの会社へ移ったが、相変わらず加藤と柳沼は音声多重カラオケの仕事を続けていた。 柳沼にもOLの習性が染み込んできたのか、昔ほどのガサツさはなくなり性格的にも丸みを帯びてきた(体型も)。 かぎとりぼんのはなし 加藤の仕事も順調に進みだしたころ、柳沼の母親が倒れた。すると彼女はいきなり会社を辞めてしまった。実家に戻り、母の看病をするためである。 柳沼は母の看護を続ける中、家族についてや、幼いころの記憶をたどった詩をいくつも書き、曲を作った。(これが後の1stアルバムに多数収録された) 幸い母親の回復は早かった。柳沼はたくさんの新曲と、新たな決意を胸に東京へ戻ったのである。 ほどなく柳沼は次の仕事を見つけた。ダイエー本社のセレクターという仕事だった。 ちょうどそのころ、加藤の仕事は暗礁に乗り上げた。加藤に出資してくれていた親会社が倒産してしまったのだ。 親会社からだけの仕事をあてにしていた加藤の経営するスタジオも当然仕事がなくなり、廃業に追い込まれることとなった。 しかし、これがクレヨン社誕生のきっかけとなったのである。 倒産した親会社が未払いの売掛金の相殺として、買い揃えてくれた録音機材をすべて加藤に引き渡すことにしてくれたのだった。 加藤はスタジオを引き払い、西日暮里の六畳間の自宅アパートに録音機材をすべて持ち込んだ。 機材で溢れかえったアパートの一室で加藤は途方に暮れた。 「これで何をしようか…」 そして加藤は遠いあの日のことを思い出すのである。 「このガサツな女子高生の才能を育てたい…」 当時柳沼には、母の看護の時期に作った曲のストックが何曲もあった。その中から加藤は最初の曲として「かぎとりぼんのはなし」(1stアルバムに収録)を選んだ。 加藤は昼間は近所にバイトに出かけ、夜はオケ作りに励み、柳沼は休日ごと歌入れにやってきた。こうして2ヶ月をかけた試行錯誤の実験作「かぎとりぼんのはなし」はついに完成した。 完成した作品を加藤は「リットーミュージック主催オリジナルテープコンテスト」に出品してみた。結果、奨励賞なるものを受賞した。 気を良くした二人は翌年も作品出品のため、加藤はアルバイト、柳沼はOLを続けながら、制作活動に精を出すようになる。 翌年オリジナルテープコンテストはAXIAの協賛が付き、規模も大きくなり「第一回AXIAミュージックオーディション」となっていた。 加藤と柳沼はそのオーディションに「辻が花浪漫」(1stアルバムに収録)を出品した。 そしてその曲は、本人たちも予想していなかったグランプリを獲得することになったのである。 加藤と柳沼が出会ってから7年目の春のことだった。 |