初心を忘れず頑張ります。  議員日記

高橋よしひろ、66歳。

20代半ばからムラおこし運動に奔走。

思えば遠くへ来たもんだ。

でも、初心を忘れず頑張ります。

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2019/12/6

(無題)  議員日記

令和元年12月6日

https://www.youtube.com/watch?v=gqcka2MTqHI

令和元年12月定例会一般質問

執行の答弁をお聞きください。
「お役所仕事」と「詭弁」を感じる動画です。(笑)

ぜひご覧ください。


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                大分合同新聞
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2019/11/25

令和元年12月定例会一般質問通告書  議員日記

令和元年11月25日

明日11月26日から12月定例会が始まります。

私の一般質問は12月5日午後1時からの予定です。

傍聴へぜひお越しください。なお、インターネット中継もやっておりますので、ネットでもご覧になれます。

私の一般質問の通告書は以下の通りです。
一、院内町養豚場問題について
(1)平成30年9月定例会の一般質問で、用水路への放流許可を取っているかの質問に 「県北部保健所に確認したところ『設置届の中で、処理施設の排水は、公共用水域に排 出される届け出となったいる』が、市には放流許可申請は提出されていない」との答弁 だった。さらに本年9月定例会で「勝手に汚水を流すのは水質汚濁防止法以前の問題と 思う。許可なく汚水を流すことは問題ないのか。業者に対し、市はどう対応したのか」 と改めて質問した。これに対し院内支所産業建設課長は「放流許可の申請書については 現在は提出されていない。申請の提出にあたっては養豚場施設の排出施設及び放流の経 路について県・市・業者と現地確認を行い、事実確認をした上で精査し、提出について 指導を行っていきたい」との答弁だった。その後どうなったのか。

(2)宇佐市が一部豚舎と工作物3基の建築確認申請が提出されておらず、違法性を認識 してすでに8ヶ月が経過している。この間、建築確認事務が全く進んでいない状況に対 し、守る会は8月20日に市長宛に要望書を提出し、@業者に早急に確認文書を出させ ることA工作物の現地を精査し、適切な確認審査を行うこと。その上で問題があればB 専門の一級建築士の指導の下、建設業者による改修工事を実施させ、完了審査を実施す ることを求めるようお願いしたことはすでにお伝えした。9月定例会一般質問で、報告 書の期限についてお尋ねしたところ、住宅建築課長は「工程表が提出され、10月30 日までに構造物実測図作成とあるので、10月末日を報告書の期限と考えている」との 答弁だった。その後報告書は提出されたのか。

二、宇佐市の救急医療体制について
(1)4台あるといわれている高規格救急自動車の地域別の出動回数、救急救命士の有資 格者数、実際に救急業務に従事する救急救命士の数、救急車の平均到着時間と救命率等、 宇佐市の救急医療体制の現状と現在、宇佐市が抱えている具体的な課題や問題点につい てお聞きしたい。

(2)宇佐高田医師会病院は昭和56年に宇佐高田地域における医療の拠点病院として開 院し、開放型病院として地域医療機関からの紹介患者中心に、第二次救急指定医療機関 や僻地医療拠点病院、災害拠点病院、第二種感染症指定医療機関など、多岐にわたって その役割を果たしております。宇佐市としても第二次救急医療施設や在宅当番医制度の 運営等で協力をいただいており、地域医療としてなくてはならない存在だ。また成人病 検診センターは宇佐高田地域の住民の疾病の予防・早期発見を通じて地域医療に貢献し ている。ところで本年7月25日付で宇佐市医師会長、豊後高田市医師会長連名で「宇 佐高田医師会病院・成人病検診センターの新築移転事業支援についての要望書」が市議 会へ提出されたと聞いている。その新医師会病院建設構想の概要と支援に対する当局の 見解をお聞きしたい。


三、修学旅行について
(1)修学旅行とは、ある百科事典に「教職員の引率のもとに、児童・生徒が日常経験し ない土地の自然や文化を見学し学習するために行う旅行。明治 10年代頃から始り,慣 行的に実施されていたが、現在は教育課程のなかに特別活動に属する『遠足的学校行事』 として位置づけられている」とある。 修学旅行の目的は変遷してきたが、現在、宇佐 市立小・中学校の修学旅行の目的とコース、その選定方法及び金額は。またそれはそれ ぞれの学校ごとに決めているのか。

(2)去る11月18日、県教委が県立高の修学旅行の課題を考えるプロジェクトチーム を設置し、議論を始めたという。そこでは旅行費が基準を上回っている学校が多い現状 を踏まえて、設定額の見直しが必要かどうかを検討し、質の向上や費用圧縮につなげる ため、集札の参加業者を増やす方策を話し合うとのこと。実は私も、今から17年前の 平成14年3月定例会の一般質問で当時修学旅行が随意契約で行われ、費用が高止まり している問題を上げ、競争入札による業者選定を行うようになった。3年後の平成17 年12月議会で再度この問題を取り上げ小・中学校の修学旅行をすべて競争入札に変え ていることを確認した。その後も修学旅行は競争入札を行っているのか。
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2019/11/25

これからも、どうぞよろしく!  議員日記

令和元年11月25日

今年で市議生活20年。6月に全国市議会から表彰を受け、実は11月3日に市功労者表彰を受賞しました。

年数が経てばいただける賞ですが、これまで健康で精勤できたことと私を支えてくれた妻や講演会の人たちに感謝して有り難くいただきました。

もう少し頑張ります。

皆さんこれからもどうぞよろしくお願いいたします。


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2019/10/26

『海の武士道』について  議員日記

※10月16日、ロータリークラブで卓話した内容です。ご一読ください。

「海の武士道」について  高橋宜宏


 今から9年前の平成22年10月23日のことでした。元イージス艦艦長であり、現在は吉富町で著述業をなさっている是本信義氏から「谷川清澄提督を囲む会」へのご招待があり、麻生哲氏と私が招かれました。谷川氏のことを知らない私はよく理解できないまま、会場である中津の筑紫亭へ赴きました。

 後で知ったのですが、谷川氏は大正5年に福岡県大牟田市に生まれ、昭和13年、海軍兵学校を卒業。大東亜戦争中は、「雷(いかずち)」航海長として香港攻略支援作戦、スラバヤ沖海戦、「嵐」水雷長としてミッドウェー海戦、ガダルカナルなどを転戦。終戦時には大分基地にて、最後の特攻とも言われる第五航空艦隊司令長官宇垣中将らの特攻出撃を見送ったこともある歴戦の戦士(終戦前は海軍少佐)だったということです。

 また戦後は民間企業や海上保安庁を経て海上自衛隊で勤務。1970(昭和45)年に海将へ。「海将」の位をネットで調べてみますと旧海軍では大将・中将に相当し、戦前でしたら私たち庶民はお会いできない雲の上の方だったことが分かります。1971(昭和46)年、佐世保地方総監となり、1973(昭和48)年、退職なさっています。

 谷川氏はこの日、竹田市で行われた広瀬中佐の銅像の除幕式に参列。このあと、中津市の筑紫亭で開催の「谷川提督を囲む会」へお越しいただいたということです。

 その時に谷川氏からいただいた本が『凌ぐ波濤 海上自衛隊をつくった男たち』です。この本によって、今の海上自衛隊をつくったのは谷川氏等旧海軍軍人の手によってつくられたということを初めて知りました。

 よく海外の人から海上自衛隊のシーマンシップの素晴らしさを賞賛されることがありますが、これは日本海軍のDNAを受け継いでいるからかもしれませんね。
そこで本題ですが、昨年、たまたま動画「『海の武士道』工藤俊作中佐」をネットで見て感動しました。そしてこの動画にも出てくるが、その時、駆逐艦雷の航海長をしていたのが9年前にお会いした谷川清澄氏でした。

恥ずかしい話ですが、この素晴らしい話は寡聞にして知りませんでした。改めて恵隆之介著『敵兵を救助せよ!』を購読し、この感動秘話の詳しい顛末を理解したところです。
 そこで今日は皆さんに、私が感動した動画「『海の武士道』工藤俊作中佐」を見ていただきたいと思います。

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ここで「海の武士道」の動画を会員と鑑賞。
<以下動画「海の武士道」の顛末です>
(※この部分は丹治俊樹「海の武士道!戦時中に敵兵を救った『工藤俊作』の物語! 」を引用さ せていただきました)


 「1941年12月8日に始まった大東亜戦争。1942年、インドネシアのスラバヤ沖という場所でこの事件≠ヘ起こりました。ここでは、日本軍の攻撃により、イギリスの軍艦である「エンカウンター」を撃沈しました。そして船に乗っていた船員たちは海中に放り出されたのです。イギリス兵たちはボートや木材にしがみつき海を漂流する羽目に。

 そして船から漏れた重油によって体が汚れたり、目が見えなくなる最悪の状況にありました。仲間の船が助けにくる気配もなく、疲弊し切った隊員たちの中には、自殺を図る人も現れたといいます。

 漂流すること21時間が経ったとき、彼らの視線の先に巨大な軍艦が見えたのです。彼らは、オランダの救助船が来たと思ったといいます。

 ところが、その船は敵国である日本の駆逐艦「雷」だったのです。

 その雷の船長は「工藤俊作」という男。身長185cm、体重90kg、堂々たる体格ですが、非常に温厚な性格の持ち主でもありました。あだ名は「大仏」。

 海軍時代、江田島の海軍学校で鉄拳制裁を禁じた「鈴木貫太郎」元首相のように、艦長であった時に、船員に対して、鉄拳制裁は禁止した経歴の持ち主で、部下からの評判も良く、工藤が艦長だった戦艦はいつもアットホームな雰囲気だったといいます。

 イギリス兵たちは、日本船だと思った時は、機銃掃射で撃ち殺されるだろうと思ったそうです。

 駆逐艦「雷」では、漂流者のイギリス兵と距離四千まで近づいたところで、二番見張りと四番見張りから連絡が入る。「浮遊物は漂流中の敵らしき」「漂流者四百以上」。

 実際に漂流していたのは422名のイギリス兵でした。彼らの生殺与奪は、工藤の判断次第。が、工藤は迷ったと思います。なぜならこのスラバヤ沖は、開戦の最中でもあるため、救助をしている最中に連合国に攻撃される可能性が十分にある危険な場所でしたから。

 そのとき工藤艦長は叫びました。「救助!」「取り舵いっぱい」。そして雷は救難信号の旗を上げました。

 ここから、世界の海軍史上でも極めて異例となる救助劇が始まったのです。
イギリス海軍達は、ボートや木材などにしがみついているものの、船の重油などで衣服が汚れてもいました。

 雷の乗組員たちは、先に自力で上がれるものを上げ、重傷者は後で救助しようと考えていました。

 ところが、イギリス兵たちは、先に負傷者を救助するようにと要求してきました。重傷者を引き上げつつ、ロープを海中に投げてイギリス兵たちに握ってもらう。しかし、彼らは、相当疲弊しており、ロープを握れないほどでした。

 そのため、乗組員が竹竿を下ろし、それに抱きつかせておこうとしたが、竹竿に触れると、イギリス兵は安堵したのか力尽きて海の中に沈んでいったのです。

 すると、この光景を見かねた船員達は独断で海中へ飛び込み、立ち泳ぎをしながらイギリス兵たちを救ったのです。

 ここまでくると、もう敵も味方もありませんでした。とにかく、雷の船員たちはあらゆるものを駆使してイギリス兵の救助を行ないました。この救助劇は、イギリス兵の日本人に対する印象を変えました。

 ただ引き上げられたものの、まだ警戒心が完全にとけたわけではありませんでした。「もしかしたら、この後何かひどい目にあわされるのではないか」と。

 しかし、工藤は彼らにこう言ったのです。

「諸官は勇敢に戦われた。今や諸官は、日本海軍の名誉あるゲストである」。

 その後も終日、雷は海上に浮遊し続ける生存者を捜し続け、たとえ遠方に1人でも人がいたら艦を近づけて停止させ救助をしました。のちに、イギリス兵たちはオランダ病院船である「オプテンノート号」に引き渡されました。

 これにより、世紀の救助劇は幕を閉じたのです。

 その後、工藤は「雷」を降りて、最終的には埼玉県の川口市にて余生を過ごしました。戦争で多くの仲間を失った工藤ですが、自身は生き延びたのです。また、 駆逐艦「雷」は、その後連合国軍に攻撃され沈没をしてしまいました。

 余生は、海上自衛隊や江田島海軍学校時代のクラスが在籍する大企業からの招きなどすべて断っていたといいます。工藤の日課は、毎朝、死んでいったクラスや部下の冥福を祈って仏前で合掌していたそうです。

 一方、その後、工藤の消息をずっと探し続けた一人の老人がいました。

 彼の名は「サムエル・フォール」。

 彼は、雷によって救助されたうちの一人でした。

 何としても、死ぬまでに命の恩人である工藤に一度でいいからお礼を言いたかったのだそうです。あの救助された日以来、フォール氏は1日として工藤を忘れた日はなかったといいます。

 そのため、海上自衛隊や英国海軍に正式に調査を依頼したのですが、なかなか工藤の消息を掴むことはできなかったそうです。ところが、その消息をつかんでくれた方がいました。その方は、元自衛艦の恵隆之介氏。彼のおかげで、フォール氏は工藤のお墓の場所を知ることができたのです。

 ちなみに、この救助劇の話は、実はフォール氏がいなければ誰もが知らずに封印されてしまっていた可能性があるのです。

 実は工藤は、敗戦や仲間を失ったショックからか、自身の海軍に関することやこの救助劇に関しては身内にさえ話さなかったそうです。工藤は、1979年1月12日、78歳で生涯の幕を静かに閉じています。

 2007年12月、ついにフォール氏は念願の工藤の墓にたどり着いたのです。

 フォール氏は足が不自由なため、車椅子で墓前に達したが、献花の時には満身の力を振り絞って立ち上がり、工藤艦長に語りかけたという。

 66年ぶりに命の恩人に対面した彼は、いったい何を思ったのでしょうか。
 その後、フォール氏は2013年2月、95歳の年齢でこの世を去りました。」

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 どうでしたか、皆さん。感動的な話だったでしょう。この動画「海の武士道」にも出演されていた谷川清澄氏は別のネット動画でこの「救助劇」について次のように語っていました。

「はっきりしておきたいのはあの時、敵兵を救助したのは『雷(いかずち)』だけではなかったんです。「電(いなづま)」「山嵐(やまかぜ)」「江風(かわかぜ)」、皆同じように敵兵を救助しているんです」。「向こうも一生懸命戦ったのですから、たとえ敵兵でもまだ浮いている生存者を救助するのは当たり前のことであって、特別なことをしたわけではないのです」。「すっかり美談のようになってしまっていますが、当時の日本海軍では普通の行為だったと思います」。

 ということは、江戸時代に爛熟期を迎えた「武士道精神」がこの時代の武人にもまだ残っていたということですね。

 なお、この「武士道」という言葉は、新渡戸稲造の著書『武士道』で広まったものであり、「武士道」という言葉は明治33年(1900年)以前のいかなる辞書にも載っておらず、実際には江戸時代には一般的な言葉ではなかったとの指摘もあります。

 この『武士道』はセオドア・ルーズベルト、ジョン・F・ケネディ大統領など政治家のほか、ボーイスカウト創立者のロバート・ベーデン=パウエルなど、多くの海外の読者を得ています。
 この卓話を機会に新渡戸稲造の『武士道』を再読いたしました。この本の中にこんなことが書かれていました。「『ブシドウ』は字義的には『武士道』、すなわち武士階級がその職業、および日常生活において守るべき道を意味する。 一言にすれば『武士の掟』、すなわち武人階級の『身分に伴う義務 ノーブレス・オブリージュ 』である」。

 ロータリー精神はまさにこのノーブレス・オブリージュと言われています。

  そういう意味で私たち日本人、特にロータリアンはもう一度「武士道」を見直すべきだと思います。

 最後に。昨年の10月13日103歳で谷川さんは永眠されました、ご冥福をお祈り申し上げます。


参考文献
恵隆之介著『敵兵を救助せよ』、丹治俊樹「海の武士道!戦時中に敵兵を救った『工藤俊作』の物語! 」


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後列左より小生、是本信義氏、麻生哲氏。前列左が谷川清澄氏、その隣が是本氏の令夫人

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          小生と谷川清澄氏

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谷川氏からいただいた手島正己著『凌ぐ波濤 〜海上自衛隊をつくった男たち』

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     『凌ぐ波濤』には谷川氏のサインと日付が入っている


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              恵龍之介著『敵兵を救助せよ』

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              スラバヤ沖海戦のあった場所

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              若いころの谷川清澄氏

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              工藤俊作氏の墓
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