こんにちは。
近所の桜は五分咲きほどになっています。春も近いです。
さて、今日は宗祖親鸞聖人の月忌法要ということで
万難を排して御本山にお参りしてきました。
当門さま御親修の月忌法要も
今月を含めて残すところあと3回。
4、5月は平日ですので、
僕が御親修月忌のご縁に遇うのはこれが最後となります。
近松若御前、平川さん、武田さん、池上さんといった侍真さん方と
知り合いのお坊さんお二人も御出仕でした。
略儀の大師影供作法です。
頌讃→念仏正信偈→乙回向
というやつです。
隣にお座りだったご夫婦が勤式集をお持ちだったのですが
略式の次第に戸惑っておいでだったようなので
ここですよーとお教えしたりしてました。
最近、近くに座られた「御本山ビギナー」のご門徒さんに
お経本をお貸ししたりページをお教えしたりすることが多くなっています(笑
そのうち
「なんかやたら張り切ってる若い変な奴」
として有名になるかもしれませんねぇ…(笑
まあ冗談はおいておいて。
30分ほどのご法要の後は
御堂法話として佐々木鴻昭本願寺執行長がご法話。
「わたしと小鳥と鈴と」という詩があります。
言わずと知れた金子みすゞさんの作品で
最近では小学校の教科書にも載っているそうです。
金子みすゞさんの詩を研究している方がいらっしゃるのですが
その方に小学生の子から質問があったそうです。
「題名では『わたしと小鳥と鈴と』となっているのに
詩の最後には『鈴と小鳥とそれからわたし』となっていて
順番が逆になっているのはどうしてですか」と。
普段自分たちは何ごとも「私が、私が」となり
あまつさえ他者のことは二の次三の次になってしまうものですが
この詩の視点はそうではない。
「小鳥は空を飛べる」という小鳥のありようから
「わたしは地べたを走られる」という自分のありようが浮かび上がり
また「鈴はきれいな音を出せる」という鈴のありようから
「わたしはたくさんの歌を知っている」という自分のありようが浮かび上がるのです。
すなわち、他者のありようから浮かび上がるものこそが自分のありようなのです。
言い換えると、
阿弥陀如来さまのご本願に照らされて浮かび上がるのが
罪悪深重のわが身のありようであり
そのことに気付かされて、
そのような私でもお浄土に生まれる道があったのだと
南無阿弥陀仏、と仏恩報謝のお念仏を申すことこそが
宗祖親鸞聖人のお開きくださった浄土真宗の肝要であります。
…とまあうろ覚えながらこんな内容だったような。
御本山を退出して
御出勤だった釋建仁さまとグランヴィアへ(笑
おいしいケーキをごちそうになりました。
いつもありがとうございます(笑
釋建仁さまはそのままご在所にお戻りになり、
僕は山田安心堂さんで所用を済ませて
神戸に帰ってきました。
久しぶりにゆっくり上山できました。
今日の晩御飯は何にしようかなっと。

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