御機嫌よう
大学の授業が全部終わりました。あとは卒業発表を待つだけです。
さて、今日はどうしても物申したいことがありましてですね
浄土真宗本願寺派総合研究所の紀要、「浄土真宗総合研究」の10号に「本願寺寺紋の変遷」と題した論文が掲載されています。
http://j-soken.jp/files/jssk/jssk_10_11.pdf
コチラ。
これまで本願寺の用いていた紋について体系的に論じたものは珍しいので大変興味深く読みました。
本願寺において如何なる紋が依用されていたのか、そのことを確認するために歴代の御影像に「答えを見出すことが可能」であるということで歴代の御影を確認しています(ただし制作年代に留意して)。
うーん。
着眼点は良かったのですが(すごい上から目線ですみません)現代の本派の法衣つまり半素絹型の色衣・黒衣と、信知院樣以前の法衣とが「全くの別物である」という視点と言うか理解が筆者に抜け落ちてしまっていることがこの研究の質を著しく下げてしまっているように思えてなりませんでした。
即ち。
この論文は丹羽基二氏の『寺紋』の中にある「寺紋は近世になると、にわかに使用されだした。武士や貴族の菩提寺も出来、それらの寄進用具には、家紋がつけられた」という記述に基づき、「早くとも天文16年(1547)には実如影像には鶴丸紋が入っており、そこから徐々に家紋入りの影像がつくられ、江戸時代に入って、家紋入りの影像が主流を占めるようになった」ことが本願寺における寺紋の萌芽であると位置付けています。
この書き方だと、法衣に紋を入れるかどうかは当人の嗜好や世情によるもので、教恩院樣の御影から紋が入っているのはそのような理由によるものだ、ということになります。
如何にも本派のお坊さんの考えそうな理論ですが、これは大きな誤りと言う他ありません。
有紋か、無紋か、ということは本来法衣の種類により厳密に決まってくることで、本山や別院を除いて自分が自由に購入したものをどのような組み合わせでも着用できる現行の本派法衣のほうが異質なのです。すなわち、御影に無紋のものしかない信證院樣以前と、有紋の御影も出てくる教恩院樣以後とは、「黒衣(厳密には墨色の裳付衣)」の御影だけが共通で、描かれている法衣そのものの種類が異なるのです。
以下、詳しく見てみることにしましょう。
信證院樣以前の御影としてあるものは先述の「黒衣」の御影と、それと山科八幅に見られる僧綱襟の付いた黒色無紋の御影でしょう。今一般にある香色の御影は信解院樣のお描き替えによるもので、ここでは考えないことにします。
いわゆる「黒衣」は身分に関わらず着用できますし、また必ず紋は入らないので問題にはならないでしょう。
また山科八幅に描かれている僧綱襟の付いた黒色無紋の法衣ですが、「裘代;キュウタイ」と伝えるところもあるようですが「付衣;ツケゴロモ」としたほうが無難でしょう。裘代は法皇や法親王、大納言以上の入道の宿直装束ですから信證院樣以前は着用することはできません(覚如樣は法印大僧都、從覚樣以降信證院樣まで法印権大僧都)し、何より裘代は有紋袷に仕立てるものですからあのように描くことはないでしょう。付衣は無紋薄物ですし上下通用ですから、僧位僧官的にも問題ないですし絵相にも合致します。
論文に、「(親鸞・如信・覚如三上人像)は南北朝時代の作とみられているが、そこでの如信・覚如の衣には紋は入っておらず、黒衣に墨袈裟である」とありますが、黒衣に墨袈裟だから紋が入っていないのは当然のことで、「少なくとも覚如在世時には、後世見られるような衣体や袈裟に紋をいれる風習はなかったことも意味しているといえる」という記述は勇み足としか言いようがありません。
つまり信證院樣以前は有紋の法衣を着ていない(というより身分や場面の問題で着ることがない、できない)ために御影にもそのように描かれているのです。
(注:七條袈裟を着けた場合は、「法服;ホウブク」という有紋袷の法衣か又は「鈍色;ドンジキ」という無紋単の法衣を着ますが、実際お召しになったのかどうかわかりません。七條袈裟については信樂院樣が初めてということになっていますが、存覚樣が山科興正寺の落慶に七條鈍色をお召しだったという文献があり、覚如樣から周圓樣あたりは御依用だったかもしれません)
本願寺の伝えでは、教恩院樣は大永元年(1521)に青蓮院脇門跡に任じられています。法親王に準ずる身分になったことで、ここで初めて有紋の衣が登場します。論文に出てくる鶴丸紋の入った色衣、正確に言えば裘代の御影です。
以降、信受院樣は同じく裘代の御影があり、信樂院樣が門跡号を賜ってからはそれを教恩院樣まで遡って適用させ、緋色裘代の御影(法衣・袈裟共に有紋の御影)と緋色鈍色の御影(法衣に紋が入っていない御影)が登場するわけです。
(ただし、もともと連座御影の教恩院樣〜信光院樣は香色で、信解院樣のときにこの四師が緋色に改められ、更にそれまで黒鈍色だった信證院樣以前を香色に替えたようです。大幅の御影はどうであったか…)
単に紋の有り無しではなく、お召しになっている法衣の種類が別のものです。
(なお裘代の寺院御影は四番型のサイズのみで、三番型以上は鈍色の御影です。在家用の信證院樣御影は全て裘代の御影です。覚如樣〜信證院樣の四番型御影、信證院樣の在家用御影はどうして裘代なのか謎と言えば謎で、香色の裘代という一見矛盾したような法衣なんですが、山科八幅=裘代説に依っているのか、或いは裘代許可を拡大適用し色だけ変えたのかもしれません)
また、「用途によって(家)紋を使い分ける」ことの例として、法衣には菊花紋章と五七桐が入っていて、袴に八藤紋が描かれていることが挙げられているのですが、袴の八藤紋は家紋としての紋ではなく公卿以上の家格の袴の文様としての八藤紋であって、現行の御門主樣の袴の九条竪菱が袴の文様であって大谷家の家紋ではないのと同じ理屈です。
本願寺の紋としての八藤は袴の文様としての八藤と同じなのでややこしいですが、家紋としての八藤紋と袴の文様としての八藤紋は別の象限に位置するものであって、ここで並べて述べるべきものではないでしょう。
「門跡寺院としての位置付けが確固たるものであることを主張するため」に複数の由緒ある紋が入った御影が制作された、ということは尤もなことであり、また御影の紋によって本願寺の寺紋の移り変わりを推定するのは適当なことだと思いますが、「寺紋は近世になると、にわかに使用されだした」ことの例として教恩院樣の御影から有紋衣が登場したことを挙げることや、その他の衣体に関する理解に問題があると言わざるを得ないと思います。
法衣は色目や文様等ややこしいことが多くまだまだ勉強しなければならないことが山ほどあるのですが、一言申し上げたく書き連ねました。お許しを。
事実誤認や誤りがありましたらコメント欄までご指摘をお願いいたします。

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