御機嫌よう。釋證眞です。
今日はちょっとお荘厳の話をしたいと思うんですが
(勉強に疲れたんです…笑)
お寺の余間に、七高僧と聖徳太子が御安置されてることと思います。
七高僧は御影の御軸、聖徳太子は御影の御軸か御木像か、どちらかであると思います。
どちらの余間にどちらの御影を御安置するかはまた議論があることと思いますが
法式規範(第3版)では御本尊に向かって右余間に聖徳太子、左余間に七高僧を御安置することになっています。
浄恵『真宗故実伝来鈔』では
太子高僧は、蓮如上人の御時より免せらるるとみへたり。其前は或は光明本、或は連座の御影を免せらるるとみへたり。蓮師の御時、初は太子法然六祖三幅也。其後の御免は太子一幅、七祖一幅、二幅に免せらる。(原文は漢字カナ表記、当方で平仮名に改める)
とあり、聖徳太子の御影と七高僧の御影との二幅が真宗寺院の荘厳形式として定まったのは蓮如上人の頃であると考えられています。
山科本願寺においては、聖徳太子御影、六高僧御影、源空聖人御影の三幅が奉懸されていました。(実悟『山科御坊事并其時代事』)
当初は御影堂の方に奉懸されていたようですが、蓮如上人の一周忌から三回忌ほどにまず源空聖人御影が阿弥陀堂に移動し、その後2、3年して六高僧御影が阿弥陀堂に奉懸されるようになったということのようです。
御本尊の向かって右の壇に聖徳太子御影と六高僧御影を奉懸し(聖徳太子が御本尊寄り)、三具足及び菊灯一基。左の壇に源空聖人御影を奉懸し同じく三具足及び菊灯一基。御命日にのみ灯明を上げていました。
この三幅形式は先日までの東本願寺阿弥陀堂御修復に伴う仮阿弥陀堂のお荘厳として採用されていました。
但し、御軸の並び方は違っていたような…どうだったかな。
それから石山、鷺ノ森、天満を経て京都六条堀川へ移転するまでの間はどのようになっていたのかイマイチわかりません。察するに三幅形式が踏襲されていたのではないかと思いますが…
『大谷本願寺通紀』巻三に、准如上人の元和3年に両堂が全焼し、その再建の際に初めて六高僧が二幅に分けられ、徳力善宗が准如上人の命によりこれを描いたとあります。この二幅は阿弥陀堂の両脇壇に奉懸され、向かって右の北余間には准如上人御親筆の聖徳太子御影が、左の南余間には定専坊寄進の源空聖人の御影が奉懸されたようです。なおこの時の阿弥陀堂が現在の西山別院の御本堂です。
しかし、御影堂再建により阿弥陀堂が御影堂に転用されたことでこの荘厳形式はすぐに変更となり、寛政13年の現御影堂落成により、六高僧双幅が北の壇、聖徳太子と源空聖人は南の壇に奉懸されたようです。
貞享3年、寂如上人の御時に狩野洞雲と狩野養朴に六高僧双幅を描かせ、これを阿弥陀堂両脇壇に奉懸し、宝暦10年、法如上人の御時に上人自ら聖徳太子と源空聖人の御影をお描きになり、これを両余間に奉懸しました。
六高僧の双幅には、寂如上人の御作になる讃銘が各尊の上部に書かれていましたが、昭和60年の新調御懸け替えにより、即如前門樣の御自筆の讃に変更されています。(寂如上人御作の讃銘については、『本願寺風物詩』や『もう少し知りたい仏事と本願寺の話』等の書籍をご参照のこと)
龍樹菩薩
人能念是仏
无量力功徳
即時入必定
是故我常然
天親菩薩
世尊我一心
歸命盡十方
无碍光如来
願生安楽國
曇鸞大師
信佛因縁
願生浄土
乗佛願力
便得往生
道綽禅師
當今末法現
是五濁悪世
唯有浄土一
門可通入路
善導大師
我依菩薩蔵
頓教一乗海
説偈歸三寶
與佛心相應
源信和尚
我亦在彼
摂取之中
煩悩障眼
雖不能見
大悲无倦
常照我身
なお聖徳太子御影は昭和43年に御懸け替え、源空聖人御影も近年になって御懸け替えされています。

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