こんばんは。
砺波は庄川の鮎と泥鰌を食べました。釋證眞です。
鮎は頭から食べられる小ぶりなサイズです。
泥鰌は蒲焼。日本酒に合うそうですが未体験ゾーンです。
おいしく頂きました。ごちそうさまでした。
さて、最近の思うところ。
真宗に特化したお仏具店さんでは無いのですが、
よく見る文面だと思います。
「真宗ではお位牌の代わりに法名軸や過去帳をお祀りします・・・」
・・・はて。
どうなんでしょうか。
この表現に違和感を感じないでしょうか。
法名軸や過去帳は「真宗の位牌代用品」なんでしょうか。
と言うか、そもそもの問題として、
果たして本当に位牌は「真宗的にNG」なんでしょうか。
この点についてしばらく話を進めたいと思います。
当流にては、基本的に位牌は用いないということで
僧侶の方々の間では十分周知されていることと思います。
「位牌を用いる」ということの例外が、
・真宗他派における地域的使用
・寺院における天牌・寿牌の使用
・葬儀における白木位牌の使用
ということになるかと思います。
他派における使用についてはノータッチにします。
寿牌とは「今上陛下聖窮万歳」のような「位牌」
天牌とは過去の天皇陛下の位牌のことです。
よく大谷派の御寺院で見掛けます。
天牌・寿牌については
「過去の遺物」「権威主義」と片付けることもできるかと思いますが
各御寺院の由緒・成立にも関わることなのであまり触れません。
葬儀における白木位牌の使用については、
地域によっては別の「代用品」の登場によって
あるいはご院さん方のご説明によって
少しずつ無くなりつつあるのかもしれないと思いますが
まあ根強いでしょう。当地でもよく見ます。
よく言われる位牌がNGな理由ですが、
「位牌はもともと儒教の風習で、先祖の冠爵位を記した木の札を祭壇に祭ったものであり本来的に仏教には馴染まないものです・・・」
本当にこれが理由でしょうか。
もともと儒教の風習だから仏教には馴染まないのでしょうか。
これは実に「どうでもいい」理屈であると思っています。
ご存知とは思いますが、あえて強調しますと
位牌をNGとする「べき」理由はもっと別にあるのです。
すなわち、他宗のように位牌を礼拝対象としてしまう可能性があるため、
つまり御本尊たる如来様を差し置いて
ご先祖そのものを礼拝対象としてしまう可能性があるため
その可能性を摘むという意味で「位牌NG」としていると言うほうが
より「正解」に近いと思います・・・。
・・・。
文末のこの「・・・。」は釋證眞の心の蟠りを示しています。
つまりは、位牌について述べたNG理由は
そのまま法名軸や過去帳にも
NG理由として当て嵌まってしまう気がしてなりません。
法名軸や過去帳にしたところで
礼拝の対象と解される可能性を孕んでいるではないかということです。
たとえば、ご門徒のお宅で葬儀があったとします。
葬儀にかかる一連の法事が終わり、
お仏壇横、まあ床の間でしょうか、中陰棚が設けられましたと。
この時、中陰棚にお骨と法名軸と遺影だけが鎮座ましまして
それに種々のお飾りやお供えがしてあったなら、
多くの僧侶さん方はきっと、こうご指導されることと思います。
「礼拝の対象は阿弥陀さまですから御本尊をお掛けしましょう」
「法名や遺骨は礼拝の対象にはなりませんからお飾りやお供えは不要ですよ」
「遺影は本来的にはそぐわないものです」
極めて模範解答的な指導です。
その後、ご門徒さんがお寺にお参りされたとします。
折も折、ちょうどお盆法要でした。
お盆のお寺のお荘厳・・・
余間には前住の似影や法名軸が掛かっていたり
その前に三具足のお荘厳がしてあったりします。
ご門徒さんには疑問が浮かぶかもしれません。
「この前ご院さんは法名軸やら遺影は礼拝の対象にならん言うて、お飾りやらお供えは要らん言われたり、別に阿弥陀さんを持って来て懸けはったりしはったけど、お寺のこれはええのん・・・?」
遺影と似影。
ご門徒の法名軸とお寺の法名軸。
一体何が違うのでしょうか。
中途半端ですが話が長くなったので一旦切ります。

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