蒸し鍋!
という訳でこんばんは。釋證眞です。
大変おいしゅうございました(^p^)
さて、面白い「怖い話」を見つけたのでご紹介しましょう。
>先月婆さん亡くなって、身内のみ寺で通夜、葬式やった。
通夜もちょっと変な事があったけど、葬式が異様な事態に。
坊さんがお経あげてるうちに、仏前に靄が発生。六人分の人型になって顔もわかるレベルに。
親類一同、驚きで騒ぐ騒ぐ。
六人は棺を囲むように立ち、坊さんを睨んでた。
坊さん、経を上げ終えてこちらを見て、大声で話しはじめた。
「私共の宗派では、霊など信じておりません!度々このように人の姿に見える現象がありますが、霊ではありません!」
度々あるのかと、ちょっと怖くなりながら靄に見送られて火葬場へ。
先祖の写真そっくりだった靄だったので、お迎えかね、なんて話してた。
多分うちの一族宗派替えした方がいいと思えた、ちょっと怖かった話だった。
どう見てもうちの宗門の葬式の話です。
話の信憑性(靄が出たか、それが幽霊か、或いはこの話が本当に実話なのかetc)はともかく、
宗門のお坊さんにいかにもありがちな姿勢を的確に描写した話であると思います。
すなわち、余りにも「排他的生真面目」に過ぎてしまうということ。
確かに「霊など存在しません」と宣言するのは
「教学的には」正しいでしょう。
しかし果たしてそれが「伝道」の姿勢としてはベストなのか…というと
疑問符が限りなく浮びます。
例えば、同じく葬儀のご法話でですよ。
「故人は我々に身をもって往生浄土の道をお示しくださり…」
云々。
いかにもありがちな法話です。
(と言うより、同じような葬場法話を何度聞いたか…)
故人が本当に篤信の念仏者であれば頷ける御法話でしょう。
百歩譲って、参列者がお念仏にご縁のある方々であれば通用する御法話でしょう。
しかし、遺族はもとより大半あるいは殆どの参列者が
お念仏にご縁のあった方々であるとは限らないのです。
こんなご時世、そんなことは当たり前。
大体は個人の「冥福を祈る気持ちで」参列しているでしょう。
そんな聴衆を前に故人が身をもってお浄土に云々と言ったところで
聞き流されるか、はたまた奇怪に思われるか。
教学的には正しいでしょう。
しかしそれが人々の胸を打つのでしょうか?
その葬儀で話す内容として適切なのでしょうか?
賢明な御法話であるとはとても思えません。
(ご注意頂きたいのは、浄土真宗のみ教えが人々に感銘を与えるもので無いと申し上げているのではないということです。ご縁の無かった人々に対する御法話においていきなり教学の本質に入られても不要な困惑を与える結果になってしまうということを申し上げているのです)
御教化に熱心なご住職で、参列がみな篤信のご門徒であれば
何の問題もありません。
しかしそうではない。
他宗派の参列客もいる。
他宗教の参列客もいる。
真宗であるけれどもご縁の薄い方々もいる。
そんな中で教学の根幹部分を高らかに説いたところで
それは下手な誤解を与えるだけです。
教学という鋭いカミソリをむやみに振り回したところで
髭を剃るどころか首まで切ってしまいます。
「では何か。世間話でもしておけば良いのか。」
そんな声が聞こえてきそうですが、そんなことは言っておりません。
風呂場でカミソリを使わないでくださいと言っているのです。
そんなことをすれば錆びて使い物にならなくなってしまいます。
人間が一人亡くなっているのです。
周りの方々は悲しいのです。
何よりもそういうことに対する配慮が大切なのではありませんか?
話が長くなりましたが、
さっきの話で秀逸だなと思ったのはお坊さんのこのセリフ
「私共の宗派では、霊など信じておりません!度々このように人の姿に見える現象がありますが、霊ではありません!」
このお坊さんの苦悩がよく表れていると思いませんか…。
真宗はとかく排他的になりがちです。
あれはしてはならん
こんなものは要らん
そんなものはおらん
・・・・・・
勝ち誇ったように言う真宗僧侶のなんと多いことか。
果たしてうちの宗旨はそんな非寛容な宗旨だったでしょうか?
もっと包み込むような包容力のある宗旨では無いのでしょうか?
くどいようですが、
確かに「教学的には」正しいでしょう。
しかし、
宗論は
どちらが勝っても
釈迦の恥
という川柳があるように
下手に他宗の習慣を貶めたところで
それは仏教一般の看板汚しになりはしませんか。
肝要は拝読の御文章。
それ、当流開山聖人のひろめたまふところの
一流のなかにおいて、
みな勧化をいたすにその不同これあるあひだ、
所詮向後は、当山多屋坊主以下そのほか一巻の聖教を読まん人も、
また来集の面々も、各々に当門下にその名をかけんともがらまでも、
この三箇条の篇目をもつてこれを存知せしめて、
自今以後その成敗をいたすべきものなり。
一 諸法・諸宗ともにこれを誹謗すべからず。
一 諸神・諸仏・菩薩をかろしむべからず。
一 信心をとらしめて報土往生をとぐべき事。
右この三箇条の旨をまもりて、ふかく心底にたくはへて、
これをもつて本とせざらん人々においては、
この当山へ出入を停止すべきものなり。
(中略)
よつてこのおもむきをもつて、
これを信用せばまことにこの年月の在国の本意たるべきものなり。
一 神明と申すは、それ仏法において信もなき衆生の
むなしく地獄におちんことをかなしみおぼしめして、
これをなにとしてもすくはんがために、
仮に神とあらはれて、いささかなる縁をもつて、
それをたよりとして、つひに仏法にすすめ入れしめんための方便に、
神とはあらはれたまふなり。
しかれば今の時の衆生において、
弥陀をたのみ信心決定して念仏を申し極楽に往生すべき身となりなば、
一切の神明はかへりてわが本懐とおぼしめしてよろこびたまひて、
念仏の行者を守護したまふべきあひだ、とりわき神をあがめねども、
ただ弥陀一仏をたのむうちにみなこもれるがゆゑに、
別してたのまざれども信ずるいはれのあるがゆゑなり。
一 当流のなかにおいて、諸法・諸宗を誹謗することしかるべからず。
いづれも釈迦一代の説教なれば、如説に修行せばその益あるべし。
さりながら末代われらごときの在家止住の身は、
聖道諸宗の教におよばねば、それをわがたのまず信ぜぬばかりなり。
一 諸仏・菩薩と申すことは、それ弥陀如来の分身なれば、
十方諸仏のためには本師本仏なるがゆゑに、
阿弥陀一仏に帰したてまつれば、
すなはち諸仏・菩薩に帰するいはれあるがゆゑに、
阿弥陀一体のうちに諸仏・菩薩はみなことごとくこもれるなり。
一 開山親鸞聖人のすすめましますところの
弥陀如来の他力真実信心といふは、もろもろの雑行をすてて
専修専念一向一心に弥陀に帰命するをもつて、
本願を信楽する体とす。
されば先達より承りつたへしがごとく、弥陀如来の真実信心をば、
いくたびも他力よりさづけらるるところの仏智の不思議なりとこころえて、
一念をもつては往生治定の時剋と定めて、
そのときの命のぶれば自然と多念におよぶ道理なり。
これによりて、平生のとき
一念往生治定のうへの仏恩報尽の多念の称名とならふところなり。
しかれば祖師聖人御相伝一流の肝要は、
ただこの信心ひとつにかぎれり。
これをしらざるをもつて他門とし、
これをしれるをもつて真宗のしるしとす。
そのほかかならずしも外相において
当流念仏者のすがたを他人に対してあらはすべからず。
これをもつて真宗の信心をえたる行者の
ふるまひの正本となづくべきところ件のごとし。
あ、明日テストだった…
コメントは明々後日にお返しします。

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