「これは、どうしたら出来るようになるのですか」と質問される。
答える場合と答えない場合がある。
もちろん、無意識的に瞬時の判断だ。
「それでいいよ」という場合と「違うよ」という場合がある。
これは、少し時間が必要な分析的判断だ。
「どうしたら?」と質問された場合、大きくは二つの理由がある。
一つは、その前も、その前の前のやるべきことが出来ていないから。
つまり、基本的な事を知らないのに、という場合だ。
一つは、その人から、「それが出来るようになってどうするのか?」という先が見えていない場合だ。
もちろん、それはこちら側が判断することではないのかもしれないが。
「それでいいよ」と言うのは、こちらも、大きく分けて二つの理由がある。
一つは、それ以上の成果を、その人から望めない場合だ。
一つは、今取り組んだ内容に関してはそれで良い場合だ。
だから、全てが良いのではない。
私の言う「武道」という考え方は、我ながら難しいと思う。
中々整理がつかない。
それは、むしろまだまだ発展するのかも知れないから。
ということかもしれない。
とも思う。
その意味で、人は生モノだから厄介だ。
海外のWorkshopでも、こういった私の態度は変わらない。
だから、誤解も度々起こる。
「それでいいよ」と言われた人は、完全に良いと思ってしまうのだ。
しかし、誰が見てもおかしいのだが、そのことは当人だけは分からない。
だから、もっと深いところを突っ込んでいて出来ない人に、勝手に教える場合がある。
日本人も海外の人も同じなのが、そういった場合でも出来ていない人の話を聞くところだ。
それを見ていてキレることがある。
どうして、「自分は今これに取り組んでいるから、放っておいて欲しいと言えないのか」とキレるのだ。
言い方さえ間違わなければ、日本人の苦手な波風はたたない。
その努力もしないことにもキレるのだ。
言葉の選択は、衝突しないという実際に繋がる重要な要素だ。

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